:ブル−・スプル−スの森で 〜其の一〜 「よぉ,久しぶり元気か!」 帯広空港を降り立った僕に,懐かしい顔が笑いかけた。 確か5年振りの再開である。 不思議なもので,会ってしまうと、5年という歳月はまるでなかったかのような、つい昨日別れたかのような錯覚を憶える。 帯広空港を出ると,北海道の大気に包まれた。 うまく表現できないのだが,この感じは、どこかの高原を訪れた時に感じる空気感に似ている。 でもこれは,やはり北海道独自のものなのだろう。 飛行機から見た,どこまでも平坦な土地が続く十勝の沃野。 そして,友達・Kの車が走る真っ直ぐな道に、真っ直ぐにのびる針葉樹の林。 これらの風景が,それこそ果てがないのではないかと思う位延々と続いている。 車は少ない・・・ 帯広の市街が近くなってきた所で,右側に、樅の木のような、何か少し青みがかった木が沢山ある林が見えてきた。 Kに尋ねると,あれは「真鍋庭園」という庭園で、あの木はその「真鍋庭園」のシンボルツリ−で、ブル−・スプル−スという木なのだと言う。 「真鍋庭園」が独自で輸入しているもので,帯広の所々で目にする事ができるのだと言う。 一年を通してこの木は変わらず,常に青みがかった葉をたたえているのだと言う。 僕は頭の中で,このブル−・スプル−スの森を思い浮かべていた。 静かな月明かりに照らされたブル−・スプル−スの木々達の上に,しんしんと雪が降り積もっている情景を,そんな幻想的な情景を思い浮かべていた・・・ そんな思いに浸っている僕を乗せた車は,帯広の市街地に入り、今日の宿である「北海道ホテル」へと滑り込もうとしていた。 〜其の二〜 その「北海道ホテル」へ入る通りの角に,もう朽ちてしまったかのような喫茶店が目に止まった。 山小屋風のその店に営業中の看板を見止めた僕は,Kから、「あの店は昔からあるぞ」という言葉を聞き、後で覗いてみたいと思った。 「北海道ホテル」到着。 ホテルを見た瞬間から,「いい感じのホテルだなぁ」と思ったのだが、ロビ−へ入るなり、「お泊まりですか?」と声をかけられ、「ええ」と答えると、「こちらへどうぞ」とフロントに案内された。 Kにはそこで待っていてもらい,僕はチェックインをすませると部屋へ向かった。 リゾ−トホテルではないにもかかわらず,部屋へもホテルマンが荷物を運んでくれた。 そんなサ−ビスにも驚いていたのだが,部屋に通されて、僕は二重に驚いていた。 部屋があまりにも素晴らしかったからである。 また,天然の素材をふんだんに、自然を取り入れたその部屋でひときわ目をひいたのは、ピクチャ−ウィンド−と呼ばれる、明るい大きな窓であった。 広い部屋の横一面にとられた窓からの景色の雄大さに,僕は、「この部屋でゆっくり寛ぎたい・・・」という欲求にとらわれて行った。 しかし,Kを待たせる訳にはいかず、渋々、本当に渋々、部屋を後にした・・・ 昼飯は何を食べたいかと言われたので,僕は美味いラ−メンが食べたいと即座に言った。 Kは,じゃあ「どでかラ−メン」に行こうと、時々食べにいくというそのラ−メン屋に連れていってくれた。 その「どでかラ−メン」に入ってまず驚かされたのが,店内に所狭しと並べられ飾られた、おもちゃの山であった。 ここのご主人の趣味だというそれらのコレクションは非常に多岐にわたっており,僕はすっかり子供の頃に帰ってしまった。 ラ−メンはというと,みそバタ−コ−ンを食べたのだが、昔はよくあって今ではもうあまりお目にかかれないような、豪快な味がした。 現代の,何かキレイに整いすぎたラ−メンではないラ−メンの味がした。 うまく言葉で表現できないのがもどかしいのだが。 言うまでもないが,量も豪快であった・・・ 〜其の三〜 「どでかラ−メン」を後にする。 カ−ラジオからは地元のFMが流れていたのだが,帯広には2つのFM局があるという。 なんで2つもあるのかと聞くと,帯広はそういう土地柄なのだという。 FM局に限らず,誰かが何かを始めると、それに便乗するのだと。 だからこの小さな街に同じようなものが2つも3つもあるのだという。 そういった意味で帯広は少し変わっているのかもしれないと・・・ 変わっているといえば・・・ 十勝バスという黄色いバスを度々見かけたのだが,とにかく凄く古いバスで、こんなバスが今でも何台も元気に走っている姿に、僕は素直に感動してしまった。 この黄色いバスには,少しでも長く活躍していてもらいたいものだ。 こういう変わった事なら,大歓迎である・・・ 今日はKに一つ頼まれている事がある。 なんでも奥さんの友達の娘さんが声優になりたいらしく,その娘さんを含めた友達3人と話しをしてくれないかというもので、夕方「北海道ホテル」のティ−ラウンジで会う約束になっていた。 その前に少し時間があったので,先程の気になった喫茶店でコ−ヒ−を飲もうという事になった。 ちょっと期待に胸を膨らませながらドアを押す・・・ しかし,そこは普通の喫茶店であった。 勝手に山小屋風を思い浮かべていた僕が悪いのだが,ハハハハハハ・・・・・ 時間がきたので待ち合わせ場所に向かう。 2人は高一で,1人は中三だという女の子達と話しをする。 様々な事柄をしゃべったと思うのだが,最後に中三の子から、「どんな気持ちで役を演じていられるんですか」という質問を受け、「その役を好きになる事が、どれだけ好きになってあげられるかが大事だね、その役を愛してあげる事、それが一番大切なんじゃないかと思うよ」と、僕は答えていた。 答えながら,自分も、この「愛する」という当たり前の事ができているのだろうかと考えていた・・・ 〜其の四〜 その3人と別れた後,Kの家へ行きお茶をご馳走になり、Kの家族と一緒に夕食を摂る事になった。 夕食は,帯広名物と言われている「ぶた丼」。 一番美味しいと評判の老舗のお店は生憎休みで,違う店に行く事になった。 「ぶた丼」は,炭火で焼いた豚肉を丼のご飯の上にのせ、タレをかけただけというごくシンプルなものだったのだが、今度来る時は、その老舗の味を味わってみたいと思った・・・ 今回,帰ってから色々言われる事になるのだが、北海道まで行って、美味い海の幸を何も食する事をしなかった。 そんな事をどういう訳か全然考えていなかったのだ,ハハハハハハ・・・・・ その後僕とKは,Kが20年来通っているというバ−に行く事にした。 7階建てのビルの各階に,4つのスナックが入っていたのだが、その店はちょうど「メキシコ」程の大きさで、このビルの中では、そこだけ異色の空間のようであった。 その店のマスタ−との話しも楽しく,Kとの、ここでは書けない(笑)話し等で盛り上がったのだが、不思議と、はるばる北の地まで来て飲んでいるという気持ちにはならなかった。 いつものように夜が来て,友と酒を酌み交わしている。 そんな穏やかな時が過ぎていった。 その店のカウンタ−越しの壁のコルクボ−ドには、店を訪れた人達のポラロイド写真が貼ってあるのだが(殆ど女性)、帰りがけに、僕の写真もとらせてほしいとマスタ−に言われ、僕もその写真達の仲間入りをする事になった。 帯広のそのバ−「BLUES」に行くと,サインをいれた僕の写真が貼ってある。 こういった事ははじめてだったので,何だか気恥ずかしい感じがした。 今度は雪の降る頃にあの地を訪れ,「BLUES」で静かに飲みたいと思う・・・ 〜其の五〜 タクシ−を降り,Kと、「おやすみ」の挨拶を交わし、ホテルヘ。 部屋に入り,まじまじと再度眺め回してしまった。 時計の針は,2時半をさそうとしている。 今回の旅は,Kと久しぶりに会って酒を飲むというのが目的だったのだが、この「北海道ホテル」が、この部屋があまりにもいい印象だったので、このまま帰ったら後悔するのではないかと考えはじめていた。 とりあえず,普通よりも広くとられたバスル−ムでシャワ−を浴び、「エッセンス」の掲示板に書きこみをして寝ようと思った。 明日の天気は悪いと言うし,朝起きてどうしようか決めようと。 何故か安らかに寝られそうだなと思いながら,ベッドに横になった・・・ 朝7時半起床。 カ−テンを開け放つ。 晴れていた・・・ 風は強いようだが,雨という予報ははずれ、空は晴れ渡っていた。 急いで歯を磨き,顔を洗い、ヒゲを剃って、朝食を摂りに部屋をでた。 朝食は,ホテルの奥にある、「バ−ドウォッチカフェ」というテラスレストランでだった。 このレストランがあるのは知っていたのだが,僕はまだ足を踏み入れていなかった。 レストランの入口で禁煙の旨を告げ,窓際の席に案内される。 そのレストランはホテルの中庭に面しており,外では強い風に木々がざわめき、紅葉した葉がたくさん舞っていた。 その光景を見ながら僕は決心していた。 「もう一泊しよう」と・・・ ゆっくりと朝食を摂った後,中庭を散策し、部屋に戻る。 旅行会社の知り合いに連絡を入れ,チケットの手配と宿に確認をとってもらう。 僕が連絡を入れた時にその知り合いは,「もう一泊されますか?」と言い、「そんな事ではないかと思いました」と、僕の突然の心変わりにも驚いた様子も見せず、すぐに対応してくれた。 そのすぐ後にホテルのフロントからも,「同じお部屋で大丈夫ですので」という連絡をもらい、安心した僕は、Kとの約束の時間まで、大きな窓から見える木々のざわめく様や、北海道の空の青さを眺めていた・・・ 〜其の六〜 11時30分。 Kから今着いたと連絡が入り,駐車場に向かう。 僕を見たKは怪訝な顔をした。 僕は急遽もう一泊する事にした旨を話し,前からKにすすめられていた、十勝平野を一望できる場所に連れて行ってくれないかと頼んだ。 Kは喜んでOKしてくれた。 その場所が勝手に近いものだと思いこんでいた僕は,一時間ちょっとかかると聞き、Kに、「いいのか?」と聞いた。 するとKは,「何言ってるんだ、どこだって行ってやるよ」と、笑顔で答えてくれた・・・ 北海道は長い道が多い。 曲がったり新しい道に入ったりしても,また長い一本道が続いていたりする。 市街地を抜け暫く走ると,もう両側には広大な牧草地や畑が、それこそどこまでも広がっている。 掘り起こされている畑は,どれもじゃがいも畑で、これからは豆がとれるのだという。 30分程走った時,Kに目的地の場所を聞いたら、「あそこだ」と指さしてくれた。 その場所は遥か向こうに見える山並みの麓あたりで,僕にはどうみても30分ちょっとで行ける距離には思えず、「あそこまで本当に30分位で行けるのか!?」と驚いて聞き返してしまったのだが、Kからは、「まぁでもそんなもんだよ」と言う、のんびりした返事が返ってきた・・・ 目にする針葉樹は美しく、真っ直ぐなその姿を、北海道の大地に、大自然の中に、気持ち良さそうに、誇らしげにさらしている。 途中,畑の所々に、牧草ロ−ルと呼ばれる、牧草を丸めたものを目にした。 何と一つが,200キロ〜300キロ位はあると言う・・・ 「ほらもうすぐそこだ」と言われ時計を見ると,先程の地点から、成る程約30分たっており、目指す、「ナイタイ高原牧場」の展望台へと続く道へと車は入っていった。 入口の看板に書かれていたのだが,今週末でこの道は閉鎖されるとの事、この時期に思い立って来て、そして、滞在を伸ばして良かったなと、密かに僕はこの幸運に感謝していた・・・ 〜其の七〜 そこは,本当に果てしなく広い牧場で、ここには日本全国から牛等が集められてきて、ある一定期間放牧をされているという。 目指す展望台はこの牧場のトップにあるらしいのだが,道を登り始める少し前から雪がちらつきはじめてきた。 最初は,「風花か?・・・」と思っていたのだが、どうやら雪も混じり始め、だんだん吹雪いてきた。 展望台に着く間にも,何回も、やんだり、青空が覗いたり、また吹雪いたりを繰り返していた。 そして展望台に到着。 一層吹雪きが強まってきた中,車を降りる。 「凄い・・・」 天気が悪かったので,遥か彼方まで見渡す事は出来なかったのだが、ここから見る十勝平野は圧巻であった。 しかし,冷たい。 駐車場の奥のレストハウスを見ると,中に人が見えたので行ってみる事にした。 下のここへの入口には,もうレストハウスは閉まっていると出ていたのだが・・・ 行ってみると,やはり、昨日、10月25日(水)でクロ−ズしたとの札。 「ええっ,昨日かぁ〜」と、どうしようかと佇んでいた僕らをみとめて、店内にいた人(多分マスタ−)がドアを開けて、「いいですよ」と招き入れてくれた。 窓際の左奥の席では,何人かのおばさん達が食事を摂っていた。 「焼肉ならありますので」と言われ,僕とKは、ジンギスカンを食べる事にした。 ご飯と味噌汁を頼んだのは言うまでもない。ハハハハハハ・・・・・ お腹も空いていたし,寒くて体も冷たくなっていたので、二人とも、来た肉を焼きながら、暫くの間もくもくと食べていた。 後で分ったのだが,どうやらあのおばさん達は従業員の人達で、かたずけを済ませ、今シ−ズン最後の昼食を食べている所だったようだ。 僕達は本当にラッキ−だった。 会計の時には,入って来た時に言ってくれたように、割安にしてくれた。 最後に店のマスタ−に,「ナイタイとはどういう意味なんですか」と尋ねてみたところ、それはアイヌ語で、「奥の深い沢」という意味なんです、という答えが返ってきた。 「奥の深い沢か・・・」 まだ止まぬ吹雪きの中,車へと足早に戻りながら、もう一度十勝平野を見やり、その言葉を、何度も呟いていた・・・ 〜其の八〜 車に乗り道を戻り始めて暫くすると,空が嘘のように晴れてきた。 さっきまで吹雪いていたのが信じられない位の変わりようだ。 来た道を戻りながら,別世界と呼んでもいい程の、先程までいた「ナイタイ高原牧場」の風景を思い出していた。 そしてあの広大な十勝平野の事を・・・ Kは,この帯広が、もしかしたら北海道の中でも北海道らしい土地かもしれないと言っていた。 まったいらな大地がどこまでも続いていて,丘陵地帯のようなアクセントはないが、広い北海道というイメ−ジには、一番近いのではないかと・・・ すっかり晴れ渡った北の大地の中を,長い直線道路をいくつも走りながら、Kと取りとめもない話をしながら、窓の外の風景を飽きる事なく見続けていた。 この風景に,この大自然に、飽きる事等ないのだろうと思っていた。 「このような環境の中で暮らせたら最高だろうなぁ」等とも思っていた。 自然に,松山千春の「良生ちゃんとポプラ並木」が、口をついてでてきていた・・・ 気がつくと,もう帯広の市街だった。 僕は「六花亭」の本店の喫茶室に行ってみたかったのだが,休みで、支店の方に、Kに連れて行ってもらった。 そこは,一見美術館のような佇まいであった。 厚い大きな木の扉を押して入る。 2階のティ−ル−ムに腰を落着け,僕はKの持ってきた、専門学校時代の写真に見入っていた。 あの頃の話しは,それこそ溢れるように出てくるもので、でも当時、自分が何を思い、何を悩み、何故そのような行動を取っていたのかという細かな事までは憶いだす事はできない。 ただ,純粋だったんだろうなとは思う。 真っ直ぐだったんだろうなと・・・ ひとしきりその頃の話しをした後,僕達はその店をあとにした。 そしてKの家に寄り,奥さんにお礼を言ったのだが、逆に、今日焼いたというパンを戴いた。 僕は,「また来ますね」という言葉を残し,Kにホテルまで送ってもらった・・・ 〜其の九〜 途中Kが,「グリ−ンパ−クにある400メ−トルベンチを見てみるか?ホテルの近くだから」と、そちらにまわってくれた。 その400メ−トルベンチは,ギネスブックにも載っていた世界一長いベンチだったそうだが、最近その記録は破られ、世界一ではなくなったのだという。 グリ−ンパ−クは,広大な芝生の広場で、コンサ−トや催し物等が行われる事が時々あるのだそうだ。 そしてそれを含めて広がる「緑ヶ丘公園」。 このような広い公園があるというのは,凄く羨ましいと思った。 自然が当たり前に,豊かにあるというのは、人にとって大事なんだなと考えていた。 ホテルの前に連なる「とてっぽ通り」と言われている通りも,ポプラ並木が見事で、散策するにはちょうどいいと聞いた・・・ 明日空港まで送ってくれるというKに,「今日はありがとう」と言い、ホテルへ。 部屋に帰り室内を見まわす。 やはりいい部屋だ。 夜はル−ムサ−ビスでコ−ヒ−でも注文して,ゆっくりとこの部屋で本を読もうと決めた。 そして,まだ入っていない温泉に向かった。 ここの温泉は,ドイツと十勝の2ヶ所しかない、世界でも非常に貴重な、植物性である「モ−ル温泉」だという事であった。 「モ−ル温泉」とは,大昔、地中に埋もれた植物が黒炭に変化する過程で生じる、フミン酸やフルボ酸という、肌をつるつるにする有機酸が地下水に溶けだし温泉になったもので、茶色っぽい色がまた何ともいえなかった。 こうして温泉に,露天風呂につかっていると、時の流れがゆるやかに感じられ、僕はただただ、空を見上げていた。 一番星が輝きはじめ,冷たさをましてきた大気を、体全体に感じながら・・・ 「バ−ドウォッチカフェ」でゆっくりと時間をかけて夕食を摂る。 「エブリシング・ノ−ス」というショップの入口から,ホテル内にある「森の教会」を見る。 いくつものア−チの向こうに「森の教会」は見えるのだが,僕はここから見る教会の様が気に入っていて、何度となくア−チの向こうに見える教会を眺めやっていた・・・ 〜其の十〜 部屋に戻り,少し用を済ませた後、もう一度温泉へ。 そして帰ってきてからル−ムサ−ビスでコ−ヒ−を注文した。 もう外はすでに闇だったが,広い窓のカ−テンは開け放っている。 今夜も風が強い。 時々窓の外に目をやりながら,本のペ−ジを繰り始めた。 静かだ・・・ 僕だけの贅沢な時間がここにある。 僕だけの,自分にはどうしても必要な時間がここにある。 北の大地での豊潤な時の流れに身を任せながら,ペ−ジをめくる音だけが、静かな部屋の空気を震わせているようだ。 驚いた事に,コ−ヒ−ポットには約4杯分のコ−ヒ−が入っていた。 僕にしては珍しく,その4杯分のコ−ヒ−は飲み干していた。 小説と一緒に飲み干していた。 本を閉じ,暫く夜の中でじっとしていた。 北の大地の声を聞こうとしていたのかもしれない。 凝縮した闇のささやきを聞きたかったのかもしれない。 木々に抱かれているような,深い森の中に抱かれているような安らぎを憶えながら、僕はベッドに横になった。 すぐに心地よい眠りが訪れてきた・・・ この「北海道ホテル」は,北海道の天然の素材がふんだんに使われて設計されており、だから、ホテル特有の匂い等もなく、快適に過ごせるようだ。 レンガは全て地元・十勝の粘土を焼き上げた特別製であり,部屋の窓枠は、あまり他では見る事のできない木製である。 ホテル全体に,木や紙、土やレンガ、そして陶器等、十勝の自然素材が息ずいている。 館内を歩くと,壁に凭れたり、色々なところをつい触りたくなり、ホテル内を歩き回って、レンガの感触や木の温もりを肌で感じとろうとしていた。 そうすると,この「北海道ホテル」が、森の中にあるホテルだと実感できた。 十勝にあるのに「北海道ホテル」と敢えて名ずけた誇りのようなものが分るような気がした・・・ 〜其の十一〜 朝食の前にホテルの中庭を歩いた。 晴れてはいたが,やはり風が強い。 ゆっくりと中庭の森を歩きながら,時々立ち止まっては、空を、木々を見上げていた。 昨日の夕方も座った木のベンチに腰をおろし,この風景の中に自分を自然に溶け込ませたいと思っていた。 この匂いの中に,雰囲気の中に、同化したいと思っていた。 かつては,十勝・帯広には、大きな森がいくつもあったのだと言う。 そしてこの「北海道ホテル」の中庭は,そんな残された森の一つなのだと言う。 調和のとれた小さな自然。 できれば,蝦夷リスに会いたいと思っていたのだが、それは又次の機会にとっておこう。 少し体も冷えてきたようなので,「バ−ドウォッチ・カフェ」へ。 窓際で陽射しを浴びながら,風に舞う、紅葉した木の葉の乱舞を眺めながら、気持ちのいい時間を過ごした。 そして又中庭を歩き,朝風呂を浴びに温泉に。 蒼穹を眺めながら入る露天風呂も,また乙なものだ・・・ 部屋で,大きな窓から見える、遥かな日高山脈を望み、木々のざわめく様を見ながら、ここでの最後の時間をゆったりと寛いでいた。 そしてチェックアウトを済ませ,ラウンジでKを待つ。 はじめは,昨日行けなかった六花亭本店の喫茶室に寄ってもらおうかと考えていたのだが、ホテルのティ−ラウンジ・スタ−ダストで最後のお茶を飲む事にした。 迎えに来てくれたKと紅茶を飲みながら,「俺にはホテルでゆっくり過ごす事があってるみたいだ」等と思っていた。 時間になりホテルを後にする。 「そういえば」と,Kが空港に行く途中立ち寄ってくれたのは、昔大変な話題になった「幸福駅」だった。 勿論もう営業はされていないのだが,売店があり、そこでは今でも切符が売られていた。 僕達がいた僅かな時間にも,カップルが一組訪れて来た。 僕は「幸福駅」が帯広にある事を知らなかったので,何か凄く得をした気分になった。 空港へ着いた時にはもうあまり時間がなくなってしまい,残念ながらKと昼食を摂る事は出来なくなってしまった。 「また来いよな」とKに言われ,かたい握手を交わし、搭乗口に向かった。 Kの人懐っこい笑顔は,僕が搭乗口に消えるまで向けられていた・・・ 一泊のつもりが二泊になった,北海道旅行。 その急な行動により,数々の貴重な体験をする事になった今回の旅。 何もせず,その空間に身を委ね、ただ身をたゆたわせているという事が、シンプルだけどとても大事な事なんだと、再認識させられた旅となった。 テイクオフした飛行機の窓から,十勝平野の、帯広の沃野を見下ろしながら、そんな事を考えていた。 やがて海に出,北海道の大地が見えなくなるまで、僕は見つめ続けていた。 この地を再び訪れる事を心に誓いながら。 雪化粧したブル−・スプル−スの森を歩いている自分を想い描きながら・・・ |
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