往く雲の如く 【レザ−を巡るエッセイ&スト−リ−】


〜夏海〜


「わぁ可愛いいですねぇ!」

海からの風にも「爽やか」という名のエッセンスが振り撒き始められた五月。
あの時からだった,夏海(ナツミ)が生まれて初めての貯金を始めたのは・・・

彼女の両親は夏の海が好きだった。
単純明快な理由である。
本当は真夏に生まれて来て欲しいと願っていたのだが,そう巧く事は運ばず、正反対の真冬の只中に
生を受けてしまった。
もっと言うなら,あまりの「アンビリ‐バボ‐!」さに、両親は暫し悶絶し、頭を抱え込んでしまっていたのだ。
しかしすぐ気を取り直し「ハワイは今の時期も常夏なんだぞぉ!だからお前の名前は、夏海だぁ!」
と、半ば強引に命名していたのだ。
こうして,冬に生まれた女の子は、両親の洗脳が功を奏したのか、冬が嫌いな、夏大好き少女の道を
着実に歩み始めたのだった。

そして時は流れ。
二十歳になったばかりの彼女は「異国」という言葉の響きに憧れて,この港町にあるリニュ‐アルされた
赤レンガ倉庫内にある雑貨ショップでバイトを始めていた。
世に言うところの「フリ‐タ‐」である。
季節は若葉が萌え立つ頃へと衣替えを済ませようとしていたが,夏海は中々重たいコ‐トを脱ぐ事が
出来ずにいたのだ。
「未練」という言葉が頭の片隅にこびり付いたままだった。
「あんな奴の事なんか!」
二股ならぬ三股も掛けられていたと知った時,彼女の脳は、自分の許容量を遙かに越えた現実を受け止
める事が叶わず、思考停止という選択を行った。
その時,彼女の頭の中の靄(もや)の掛かったスクリ‐ンには、微かな音も付いて、霧に咽(むせ)ぶ汽笛と、
何故か「石原裕次郎」の笑顔が広がっていたのだ。
いや,何故かというのは正しくないかもしれない。
それは,夏海が祖父の影響で「昭和」の「銀幕のスタ‐達」に憧れるようになっていたからだ。
止まってしまった思考の中ボンヤリと「これでも悪くないか」と思っていた事を夏海は今でも割合ハッキリと
憶えている。
そして,ようやく未練という名のコ‐トを脱いでクリ‐ニングに出せそうだと思い始めていた矢先、それと出
会ったのだ。
「今日は客足が鈍いなぁ」と心で呟き,急激に襲ってきた眠気と闘いながら欠伸を噛み殺した瞬間、一人
の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ‐!」と言いながら,夏海の両目はある物に釘付けになっていた。
最初はそれが何だか分らなかった。
店内を物色し,その客が夏海のいるカウンタ‐に近づいて来た時、思い切って声を掛けてみたのだ。
「わぁそれ可愛いですねぇ!それ何ですか?バッグですかぁ」
「えぇ,バッグですよ」
「何で出来てるんですかぁそれ」
「これですか?これは・・・あぁ、よろしければご覧になりますか?」
「えっ,よろしいんですか!?」
「どうぞどうぞ,僕もこいつの事を聞かれると嬉しいんで」
バッグをレジ横のスペ‐スに乗せているその客を素早く観察する。
(ファッション関係かな?それとも・・・)
瞬時に様々な思考を巡らしながらも,彼女はそのバッグから目を離せずにいた。
「こいつは,アルミ&レザ‐で造られているんですよ」
「えっ!そうなんですかぁ・・・」
話によると,このバッグは数タイプあり、完全オ‐ダ‐制で販売されているとの事だった。
ショップはなく,車をアルミで成形している工場内にあるのだと。
しかしこの丸い感じとレザ‐が,何と不思議で素敵なコントラストを生み出しているのだろう。
夏海は一番気になっていたプライスを聞いていた。
「こいつで〜万円位でしたかねぇ」
その金額は今の夏海にとっては大金といえる金額であった。
(あちゃ〜!)と思いながらも彼女は(でも絶対欲しい!)とメラメラと内なる闘志を燃やし始めていたのだが、
次の瞬間,決めていたのだ。
(お金を貯めて,数ヶ月後には買いに行けるようにしよう)
早速,そこのサイトと大体の場所を聞き「また来て下さい!」とその客の背中に声を掛けていた。
「あっあの人の仕事,聞くの忘れちゃったな」
掌には,まだあのアルミの滑らかな感触が残っている。
「よ‐し,頑張るぞ‐!」
この時彼女は気付いていなかったのだが,夏海の心には、そのバッグを得意げに持つ自分の姿しか
写し出されておらず、あの重たいコ‐トの事など、影も形も残っていなかったのだ。

それからの彼女は,まるで生まれ変わったかのようにキビキビと働いていた。
同僚からはその姿が,失恋の痛手から健気に立ち直ろうと、わざと明るく振舞っているかのように映り、
一言も愚痴を言わなくなった夏海の株は急上昇の一途を辿っていったのであった。
当の彼女はというと「ムフフフフッ」と時折意味不明の微笑みを浮かべながら、心の中で自分に対し
(ファイト‐ッ、なっちゃ〜んっ!)と度々気合を入れ直しているのだが、幸運にもまだ誰にも彼女の謎の微笑は
見られておらず「可愛そうな夏海ちゃん」は、皆の同情を一身に受け続けながら、一ヵ月・二ヶ月と、
一心不乱にバイトに打ち込んでいったのだ。
前述の理由からお分かりのように,彼女は夏が、そして海が大好きなのだが、今年の夏は大好きな海にも
いかず、だから、肌が白いまま、秋を迎えようとしていた。
もしかしたら,夏に黒くなかったのは今年が初めてかもしれない。
しかし,彼女は全然後悔などしていなかった。
それ程,あのバッグに心を奪われていたのだ。
まるで恋をする乙女のように。

残暑もそろそろ終わろうかという頃。
今日は朝からドキドキしていた。
逸(はや)る心を落ち着かせようと夏海は何度も何度も深呼吸を繰り返す。
バイトの昼休み。
キャッシャ‐の前には長蛇の列が出来ていた。
一人,また一人と人が減っていくと、彼女の番がきた。
「記帳」にタッチし,通帳を入れる。
その間,周りからは一切音が失われ、自分の鼓動だけがやけにハッキリと聞こえていた。
打たれた数字を見た夏海は「・・・・・」一瞬の沈黙のあと。
「ヨッシャ〜ッ!!」と握り拳をつくりながら,思わず声をあげていた。
何事かと向けられた視線などには一切お構いなく,夏海は意気揚々とスキップでも踏みかねない軽い足取り
で、お昼御飯を買いにコンビニへと突入していった。
いつもなら「鮭のおにぎり」一つで済ませていたのだが(今日はお祝いだから)と、奮発して「ハンバ‐グ弁当
下さい!」と元気な声で言っていた。
公園のいつものベンチで食べる久し振りの「ハンバ‐グ弁当」は,有り得ないくらい美味しかった。
夏海は「おいしいよ〜」と涙を浮かべながら,ゆっくりと食べ続けた。
以前は,ただ急いで当たり前のように食べていて、美味しいなどとは欠片(かけら)も思わなかったのに。
そんな事を感じている自分に,夏海は驚くとともに(あたしも満更でもないじゃん)と心に囁いていた。
「明日はいよいよ御対面だ」
ボルヴィックのキャップを廻しながら,いつの間にか高くなった空を見上げる。
鰯雲が,秋色へと急速に傾いていく空の気配に、絶妙なコントラストを与えている。
大きく伸びをした夏海の胸の内に,少しヒンヤリとした清々しい空気が流れ込んできた。
それが,体の隅々にまで行き渡った頃,夏海は腰を上げた。
綺麗に食べ終えたお弁当箱を近くのゴミ箱に捨てる。
ボルヴィック越しに見る青空は,まるで彼女の大好きな海のようで。
ゆらゆらとたゆたうその光景を,夏海はずっと見続けていたいと思っていた。
彼女の側を,歓声をあげながら子供達が走りすぎていった・・・

「うっ!」
ステップから降りた瞬間だった。
「何この匂い・・・」
思わず顔を顰(しか)める夏海には,それが俗に「田舎の香水」と呼ばれるものだとは分るはずもなく。
「ヴ〜,ジヌガモジレナイ」
などと,鼻を思い切りつまみながら言うと、彼女は小走りに走り始めていた。

「何か凄いなぁ」
車窓には畑が広がっていた。
二度目に乗り継いだこの電車に乗るのは初めてだったのだが,風景のあまりの違いに、夏海はある意味
カルチャ‐ショックを受けていた。
もともと自然志向ではない彼女にとって,緑をこんなに沢山目にする事などなかったからだ。
「こういうのも悪くないかも」
そう,あの鞄との出会いは、確実に夏海という人間に変化をもたらしていたのだ。
車内アナウンスが彼女を現実に引き戻す。
「さて,次の駅で降りたら、今度はバスに乗り換えてと」
徐行運転に移った電車は,ゆっくりゆっくりと目的の駅へと滑り込んでいった。
席を立った彼女はドアに凭れながら,ホ‐ムが迫ってくる様をじっと見詰めていた。

女学生達が通り過ぎるのを目で追いながら,夏海は由緒ある女子大の佇まいに感動を憶えていた。
「あたしもこんな大学なら通ってたかもなぁ」
信号が青になり,バスがのっそりと動き出す。
大学が後方に流れていく。
目的の工場は,バスで15〜20分程の場所にあり、乗馬クラブが近くにあるという話だった。
それにしても随分狭い道を行くものだ。
久しぶりに乗るバスの心地よい揺れに身を任せながら最後部の座席に座る夏海は,幾分緊張していた。
降りるバス亭の名前が変わっていて,聞き逃さないようにしていたからだ。
「次は,〜、次は、〜」
アナウンステ‐プが告げると「あっ,降ります!」
と夏海は思わず声をあげていた。
「降車ボタンを押していただけますか」
と,マイクを通して運転手が答える。
「あっ,ス、スイマセン・・・」
赤面しながら,ボタンを押す。
静かに顔をあげると,右手に乗馬クラブが見えた。
「あっ,これか」
急にドキドキしてきた心臓を宥めるように深呼吸を繰り返しながら,夏海はボックスに小銭を落とし、運転手
さんに「どうも」と小声で言い、ステップをゆっくり降りていった・・・

「ハァ〜,ホントに死ぬかと思った」
乗馬クラブを左に見ながら少し戻ると「あれ,どこだっけなぁ左に折れるのは」
と夏海はもう一度メモ帳を見返していた。
しかしどうもハッキリしない。
「そうだ確か外にも車が何台か出てるって言ってたっけ」
まず,一つ先の曲がり角から左を見遣り、少し戻った曲がり角から同じく左を見る。
「ビンゴ!車発見!」
夏海が唯一他人(ヒト)に自慢できるのが,視力が今でも両目共・2.0だという事だった。
そして彼女の最も良い点は,環境への順応の早さにあった。
もう既に「田舎の香水」も気にならなくなっていたのだ。
彼女の瞳には,前方の車しか映っていなかった。
一歩づつ近づくにつれ,緊張の為か、足の動きがギクシャクしたものになっていく。
「何でアタシこんなに緊張してんだろ」
駄目だ駄目だと思いながら,太股を交互に叩いている内に、工場前に辿り着いていた。
オイルの匂いと鉄(?)を焼き切るような匂いと,その他諸々の匂いが混ざりあうその空間は、夏海が未だ
体感した事がない世界を形成しているようだった。
それと,様々な「音」の連なり。
暫し,そのままでいた後、夏海は勇気を振り絞って「あの〜スイマセン!」と声をあげていた。
しかし誰も気付いてくれない。
すると目の前の車の下から人が出てきて「何か?」と聞かれたので夏海は「あの〜アタシ昨日鞄の事で
お電話した」「あぁ、昨日のぉ、ちょっと待って下さいね・・・社長!お客さんですよ、ほら、昨日鞄の事で
電話をいただいた!」
その人が奥に向かって叫ぶと,左側の車の向こうから「あぁ」と言って満面に笑みを湛えた人が何かの
工具を持ちながら歩み出てきた。
(何か凄く優しそうな方なんだ)
夏海は,工場の職人さんという自分勝手なイメ‐ジから、もう少し強面(こわもて)の人を想像していたのだ。
「遠い所をわざわざありがとうございます,すぐ分りましたか?さっこちらへどうぞ」
と左手奥の併設されている事務所に案内された。
「ごめんなさいね、散らかってて」
と,スリッパを勧められてあがった瞬間、それが目に飛び込んできたのだ。
左の窓際の棚のような場所に,数種類の、あの時見た鞄達が並んでいた。
言葉もなく見詰める夏海に,社長さんが「まぁ掛けて下さいよ、今珈琲でも淹れますから」と言うと、女性
の事務員さんが素早く珈琲を運んできてくれた。
(落ち着けぇ,落ち着けぇ夏海)
と自分に言い聞かせながら,席に付いて「いただきます」と珈琲を一口。
それからは社長さんに,アルミの話や、どのように丸味を出していくのかなどを教えて頂き、夏海は夏海で
この鞄を初めて見た時の「衝撃」を、自分には珍しく熱く語っていたのだ。
勿論,その持ち主の事も。
「あぁその方はもしかしたら,〜さんかもしれませんねぇ」
「えっ,分るんですか」
「その雰囲気からするとそうでしょうね,きっと。あの方のこだわりも凄いんですよ」
と,その人のレザ‐へのこだわりが特に凄かったと社長さんは話してくれたのだ。
「あの時も,そう言えばレザ‐が好きでとか言ってたような」
そこまで考えて夏海は(あっそうだ,そんな事よりも今日はこの鞄を買う為にきたんだから)
社長さんに,この数ヶ月、この鞄を買う為に必死でバイトしてお金を貯めた事や、自分というものが、その
お陰で少しずつだが「変化」していった事などを、再度熱く語っていた。
「そんなに思われるなんて,こいつは、職人冥利に尽きますね、いや、鞄冥利か」
と満面の笑顔で言われると,夏海はとてもホッとした気分になり、体がとたんに軽くなったような気がした
ものだ。
それから一つずつ鞄を手に取り,社長さんからの説明を受けながら思案していたのだが「これにします!」
と夏海は、瞳を輝かせて、ある品を持ち上げながら社長さんに告げていた・・・

あれから約1ヵ月
夏海はあの鞄を,一日千秋の思いで待ち続けていた。
カレンダ‐には黒丸が増え,あと数日で全て塗り潰されるであろうと思われた、ある雨の水曜の午後。
昼休み,バ‐ガ‐を頬張る夏海のジ‐ンズのポケットで、携帯が身震いした。
液晶の文字を見た瞬間,心が躍った。
「もしもし!」
「先日御注文頂いていた鞄が仕上がりましたので御連絡させていただきました」
電話は社長さんからではなく,あの事務員の女性からだった。
「ハイッ,ありがとうございます。ハイッ、ハイッ、・・・ではそのようにして送っていただけますか」
最後にもう一度「ありがとうございます!」と言った彼女は「社長さんにもよろしくお伝え下さい」と言って
電話を切った。
早ければ明日の夜,夏海は自分だけの鞄と対面する事になる。
(良かった,今週が早番で)
コンビニで買ったホットのジャスミンティ‐のキャップを捻りながら,小さな丸窓から、シトシトそぼ降る雨を
見詰める自分の頬がだんだん緩んでくる。
夏海はただニンマリしていただけと思っていたのだが,狭いスタッフル‐ムの扉を通して微かに聞こえて
くる「フフフフフ・・・・・」という不気味な笑い声は、他のスタッフと、その雑貨ショップに入ろうとしていた
客達の動きを止めるのに充分過ぎる効果を与えていた・・・

夏海が選んだのは,小物容れに最適なミニショルダ‐タイプの品であった。
手にしてから一週間余りが経過している。
寝る前に丁寧に磨く行為は,今では彼女にとって一日を締めくくる大事な習慣となっていた。
あの時,社長さんから教わった「トロ〜ンとなっていく」というその様を,夏海は体感したいと思っていたのだ。
(今日も来ないかなぁ)
夏海は「あの人」にこの鞄を見て欲しかった。
何時の頃からか,そう強く思うようになっていったのだ。
平日の昼下がり。
この時間帯が一番瞼が落ちやすい。
こういう時に限って一人だったりする。
店長は先程,買い付け先の人とのミ‐ティングに出てしまっていた。
少しウトウトしてしまったようだ。
誰かが何か言っている。
(ウルサイなぁ,今一番気持ちがいいところなのに)
「・・・あのぉ・・・」
肩を軽く揺すられた。
「もう!うるさいなぁ!!」
「あっ,スイマセン」
「エッ・・・」
「いや,これをいただこうと思ったものですから」
顔が火を噴いたように真っ赤になり,心臓が口から飛び出しそうになる。
待ち侘びた「あの人」が,今、目の前で優しい微笑を浮かべて佇んでいる。
「いえっ,フ、フイマせん」
(ゲッ,涎まで・・・)
急いで俯いた彼女はハンカチで素早く口の端を拭った。
「ゆっくりでいいですよ,待ってますから」
(見られてた!ウ〜ッ穴があったら入りたいよう!)
夏海はギコチナク笑いながら,ここは笑って誤魔化すしかないと考えていた。
「あの人」が持ってきたのは,オリジナルのレザ‐ケ‐スに包まれた「爪切り」だった。
夏海もいいなと思っていた,店長自慢の一品だ。
「この色はまだありますか?」
レジテ‐ブルに置かれた薄いベ‐ジュのそれを見て「ええっ,在庫はまだありますので」と、奥の商品が置かれ
ている小部屋に引っ込む。
その時に化粧を軽く直すのも忘れなかった。
(あれっ,在庫はまだあった筈なのに)
しかしいくら探しても,薄いベ‐ジュだけがない。
(そういえば・・・)
夏海は思い出していた。
(そうだ,店長がミ‐ティングにあの色全部持ってったんだ)
「スイマセ〜ン,まだ残ってたと思ったんですが、切らしてたようです」
「そうですかぁ,これだと、ほら、ここにシミの様なものがあるので」
「あっ,でも、注文すればまだあると思いますので、少しお時間をいただけるのであれば、お取り寄せ致しますが」
「じゃあ頼もうかなぁ,この色合いが何か気に入ったものですから」
「ではここに,お名前と住所と電話番号を書いていただけますか、入荷次第、こちらから御連絡さしあげますので」
「あの人」の筆跡を目で追いながら(さかき・・・とうや?さん,か・・・)
この時夏海は,幸運な偶然に感謝していた。
だって,名前(あの時、社長さんが言った名前はちゃんと聞き取れていなかったのだ)も電話番号も、自然に
知る事が出来たのだから。
「さかき・・・とうや、さんとお読みするんですか?」
「ハイッ,榊 冬夜です」
「だいたいどの位で入荷しそうですかねぇ」
「明日発注を掛けますので,早ければ2〜3日中には」
「分りました,じゃあよろしくお願いいたします」
と「あの人」が踵を返そうとした瞬間
「ちょっと待って下さい!」
夏海は思わず大きな声を出していた。
「えっ」と不思議そうな顔をする「あの人」に。
「あの!実は!・・・」とスタッフル‐ムに駆け込み,あのショルダ‐バッグを掴む。
「これっ!」
差し出されたバッグを見た彼は,少し驚いた表情を滲ませた後「買われたんですか」と、満面の笑みを夏海
に向けてきた。
「ハイッ,数ヶ月頑張ってお金貯めて、買っちゃったんです」
夏海は,あの人の前でちゃんと言えた自分を誉めてあげたい気分だった。
そして勢いに任せて言っていたのだ。
「それで,もしお時間があれば、その、次にいらっしゃった時に、一緒にお茶でもいかがですか?イエッ、
この鞄の事とか、あの工場の事とか、色々お聞きしたい事があって、それでもしお話出来ればなぁ・・・
なんて思ったものですから」(言っちゃった!)
暫しの沈黙の後,彼が口を開いた。
「分りました,これも何かのご縁かもしれませんし、次に受け取りにくる時には時間に余裕がある時に伺う
事にしますので」
「ありがとうございます!」
「じゃあ連絡待ってますので」
「ハイッ,入荷次第すぐ御連絡差し上げますので」
軽く会釈をして店を出る後姿を見送りながら,彼女は鞄に語りかけていた。
(君のお陰だね)
「も〜うっ,今晩は徹底的に磨いちゃうからね!」
鞄を抱きしめてキスマ‐クを付けた時,店長が帰ってきた。
「何だ,ニヤニヤして、気持ち悪いなぁ、何かいい事でもあったのか?」
「フフ〜ンッ,それは、ひ・み・つ、で〜す」
「ハイハイ,あっ、それより、あの爪切りの感触、いい感じでな、大口の注文が入るかもしれないから」
「良かったじゃないですか店長、店長のセンス、あたし好きですよ!」
「・・・お前,熱でもあるんじゃないの・・・」
「やだなぁ,今迄面と向かって言えなかっただけで、いつもそう思ってたんですから」
と夏海は笑いながら店長の背中をバシバシ叩いていた。
「さぁ!仕事、仕事〜っ!!」
何か言いたげな店長を残して,夏海は商品のチェックを始めた。
小春日和の浜の風が,彼女の心を微妙にくすぐり、吹き過ぎる。
(あれ,変だなぁ、ここは二階で窓も開いてないのに)
しかし彼女は確かに感じていたのだ,それは、自分が恋焦がれてやまない海から生まれたもので
ある事を。
「夏は冬に憧れて・・・か・・・」
ここが地元である,一人のベテランシンガ‐の昔の歌が、無意識の内に零れ落ちていた。
(あの人は夏が好きだろうか?)
傾きかけた陽射しを顔の左半分に浴びながら,彼女は、ほんの数秒、トリップしていたようだ。
日は確実に短くなり,人恋しい季節が加速していく。
隣に大切な人が居るという暖かな気持ちを思い出しながら「ここから,ここから!」と、夏海は自分に言い
聞かせていた。
「あの〜,スイマセ〜ンッ」
「ハイッ!」
とお客に答える彼女の瞳は,キラキラと輝いている。
レジ横に置いた鞄が,黄昏時の陽を受け、オレンジ色に染まっている。
「この鞄は売り物なんですか?」
「あっ,いえ、これは私の私物なんです」
「えっ,そうなんですか?残念だなぁ」
「実はこれ,アルミとレザ‐で出来ているんですが・・・」
説明を始めた夏海の横で,鞄はとても誇らしげに見えた。
急速に色を失くしていく時間の中,彼女の時間はカラフルに踊り始める。
夏と冬が出会ったのは,偶然ではなく必然だったのだ。
楽しそうに,そして熱心に説明を続ける夏海の横顔は,とても晴れ晴れとしていて、生き生きとしていた。
彼女は、また一つ、大人への階段を上ろうとしている。

20歳になって初めて夏海は「寒い季節もいいかも」と思い始めていた。
彼女の冬が,今迄で一番暑いホットな冬が、始まろうとしていた。

夜が静かに帳を降ろし,星は穏やかに囁き始めていた・・・



2005/6/9(木)17:04〜6/14(月)17:45  改訂の果て、茅ヶ崎「スタ‐バックス」にて

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