それでも俺は吼え続ける!


「一つの言葉をどれだけキチンと見つめているのか」

今更ながら「言葉」をしっかりと見つめてこなかった己に気付き,本当に今更ながら、その「事実」に衝撃を受けている自分がいる。
「見つめられているようで見つめらておらず」「捉えられているようで,実は何も捉えられておらず」
「言葉」を構成する,一文字・一文字にフォ−カスをし続けていかなければ絶対に辿り着けないと、頭では分っていた「筈」なのに。
「ミクロ」の作業を怠たり「マクロ」の作業のみへと主軸を移してきた自分の「怠慢」さが招いた「必然」が今の結果なのだろう。
しかし。
そう・・・しかし・・・
今からでも充分に間に合うはずだ。
「気が付いた」のなら,間に合うはずだ。
「言葉」の「宇宙」にダイブして,その世界を自由に泳ぎ回るのだ。
「行間」を我が物顔で闊歩し「文字」の裏側まで見通す事が出来る。
その「生活圏」へと何の負荷もなく入り込む事が出来る,まさに「フリ−スタイル」
考えただけで「ワクワク」するではないか。
一つの記号でしかなかった「文字」を,それらが連なって形作られた「意味」や「意志」を内包した「言葉」へと進化、及び、深化させ、それを更に「紙の上」から「立体的」な生命を吹き込まれた「言の葉」へと昇華させていく。
「表現」という「無限」の世界へと,羽ばたかせていく。
それにはやはり「大きく捉える事」と「細かく見つめていく事」の2極を同時に,同じレベルで遂行していかなければならないだろう。
「雰囲気」は大事だが,そればかりでは、キチンと中身が伝わりづらく、逆も同じ事が言える。
理想型は,その匙加減が、どんな場合でも絶妙に出来るという事だろう。
素読みの段階で勝負は決まっていると言っていい。
「捉えられる」か否か。
まさに「シンプル・イズ・ベスト」
NA(ナレ−ション)という分野に関してここ数カ月,野球のピッチャ−で言うと「新しい球種」をマスタ−する為に試行錯誤を繰り返している。
敢えて絞るのなら「説明」と「感情表現」
その内の「説明」を完全に自分の物としたいのだ。
そうなれば,自ずと見えてくるものがある。
双方を自由に行き来出来れば,それこそ、どのような状況にも対応出来る「自分の喋り」という物を「現出」させるが出来る。
始めた当初は,夏の終わる頃までには自分の物に出来るのではと思っていたのだが、物事は考えていたようには進まず「見えてきた」ところで「足踏み状態」となっている。
「己が普通に喋るように全てを喋る事が出来れば」という真ん中の思いは変わらず持ち続けていたのだが,結局のところ、その事を自分は「キチン」と分かっていなかったのだ。
全く捉えていなかったのだ。
その事に気付いたのはごく最近で,しかし「光明」が見えてきたのは事実で。
社長とのレッスンでは「何が何でも」新しい球種を自分の物とし,思い切り投げ込めるまでにしたいと思っている。
何時も何時も心の内にありながら,見えていると思いながら、実はちゃんと見えていなかった事柄が、ようやくフォ−カスされはじめ、次第にその「姿」を表し初めていると言ったところだろうか。
大分廻り道をしてしまったが,だからこそ「自分の喋り」というものをしっかりと現したい。
50代を迎えた今の「中原茂」の喋りというものを,今迄とは又違った「新しい中原茂」を、しっかりと掴まえて、大きな一歩を踏み出したいものだ。
勿論,今迄の自分は今迄の自分で、大切に「深化」させて行くのだが・・・

「情熱」はあるか!?
50代を迎えた自分に自問してみる。
最近特に様々な事に直面し,考えてみるに、如何に己が、つまらない事に今でも縛られていたのかが分かる。
それは人によって違うのだろうが,かなり堪える事柄だったりする。
そこは「素直」に立ち返らなければならないところなのだろう。
自分の「心の声」にしっかりと耳を傾け,何が自分にとって一番大事な事なのか、何が自分は一番やりたい事なのかを、明確に現出させるべきなのだ。
本当にやりたい事ならば,真ん中を見据えて、四の五の言わずやるべきなのだ。
自分に嘘を付いてはいけない。
駄目だった時の為に「保険」を掛けておくなど「言語道断」なのだ。
全ての事柄に対して「真っ向勝負」を挑むべきなのだ。
と言うより,そうでなくては「意味」がないのだ。
俺はこう思うから突き進む。
シンプルな原点に帰るべきなのだ。
自分が自分らしく生きられる場所に帰るべきなのだ。
それは,ただ「居心地が良い」というだけではなく。
ただ「安穏」に日々を暮らすというだけでは勿論なく。
何をしても己を上昇させていけると思えるようになった「今」だからこそ。
風を感じ,光を感じ、空を感じ、雲を感じ、緑を感じ、色を感じ、香りを感じ、海を山を、全てを包む「自然」を感じ。
そこに息づく「息吹」を感じ。
それらに生かされている自分を感じ。
呼吸一つにも「無駄」などないのだという事を感じ・・・

己を包む,掛け替えのない「相棒達」も然り。
命無き物にも命はあるのだと悟り。
否「命」は万物に宿っているのだという「当たり前」の理りに気付き。
全ては「一粒(ひとつぶ)」から始まるのだ。
「一粒」をどれだけ抱いていられるかで,その人の、その人自身を形成する「豊かさ」「深さ」というものが、醸し出されてくるのかもしれない。
「感性」というものが培われていくのかもしれない・・・

自分からどれだけ積極的に人に関わっていけるのか。
どれだけ「人対人」として,相手を敬い、敬われる関係を、そこに「創造(想像)」して築き上げて行く事が出来るのか。
中原茂がどれだけ大きな「一粒」になれるのか。
それはこれからの「生き方」に現れてくるのだろう。
後ろ姿に「生き様」を刻み込みながら。
「生き様」が例え「造語」であったとしても,それを「使い続ければ」「思い続ければ」「貫き続ければ」いつしか、その人を表す「強固」な「何者」にも揺るがない「言の葉」へと昇華する筈だ。
いや,必ずや「昇華」すると信じて。
そう「信念」を持って,歩み続けて行きたい。
己の道は己にしか進めないのだから。
今更ながらに,そう強く思う。
50代に踏み込んだ「今」だからこそ言える事かもしれないのだから・・・

「情熱」はある。
何故なら,その上に全てが成り立っているからだ。
心の奥底に「深層心理」の奥底に,静かに揺蕩(たゆた)う炎があるからこそ、自分はこの「場所」に立っていられるのだ。
若い頃から「年」を一年経る度に「炎」は熟成を繰り返して来たのだ。
新たな「命」を足されてきたのだ。
多くの「一粒」が融合されてきたのだ。

「一粒を抱いて」

それらを愛おしく抱(いだ)きながら「情熱」を抱(いだ)きながら,これからも「雄々しく」生きていきたい。

いつまでも・・・いつまでも・・・生命(いのち)の炎が消えるまで・・・

そして今回開かれた「帯広」でのト−クイベント。
「夢」を追う若者たちが多く参加してくれたこの「場」で己が成すべき事はただ一つ。
各々一人一人の瞳を「真っ直ぐ」に見据え「正直」にストレ−トに語る事だった。
等身代の自分をそのまま曝け出し「情熱」を持って語る事だった。
自分の生きてきた「証」を語る事だった。
削いで削いで削いで「真ん中」だけとなった「無垢」な言葉を語る事だった。
勿論,削がれる前の言葉達もとても重要で、双方の言葉をうまくミックスしながら、時には「行き来」をしながら。
誤魔化してはいけない。
ただ綺麗な言葉など,今回のト−クイベントには必要ではなく。
「生きる」事が大切なのだ。
日々を生きる事が。
何か目標を持ったのなら,その事に対して「一生懸命」生きる事が大切なのだ。
まだ目標を持てなかったとしても,日々をしっかりと生きる事が「何か」を見つける一助となる筈なのだ・・・

俺はこれからも「人と人との結びつき」を求めて,人とキチンと関わりながら生きていきたい。
様々な人の感性に触れ「己」を,豊かな心を内包した人間へと「深化」させていきたい。
「軋轢」や「恨み」や「怒り」さえも,全てを包み込めるような「度量」の大きな人間で在りたい。
その為には・・・
やはり「愚直」に日々を生きるべきなのだ。
今回の旅で触れさせていただいた方々との「絆」を決して忘れず。
「一期一会」
全ての出会いが「必然」だったのだと心に刻んで。
俺は俺なのだと心に刻んで。
今迄も・・・そしてこれからも・・・

俺の中に生きている「沢山の生命」に対して,俺はしっかりと「責任」を持つべきなのだ。
だから・・・だから・・・「ど真ん中」を生きるべきなのだ・・・

いつも「蒼穹」をその瞳に宿しながら,高らかに吼え続けるのだ。

全ての事柄に対して。

そう・・・それでも俺は吼え続けるのだ!!




2012/7/1(日)16:57 自宅にて
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2012/9/30(日)11:44 同上
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2012/10/4(木)14:30 横浜「眺めの良いカフェ」にて
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2012/10/5(金)0:59 自宅にて
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2013/6/5(水)14:37 茅ヶ崎「スタバ」にて

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