フィフティ・フィフティ

 



この頃考える事がある。
「ファン心理」とはどのようなものなのかと・・・
突然なんでこのような事を考えたのかというと,それはあるイベントを終え、多くの人の掲示板への書き込みや、ファンメ−ル、及びファンレタ−を読んでいて、ふと「ファン」という存在を自分はどう受け止めているのだろうと、思ったからであった。
自分がファンの人達に支えられているというのは揺るぎのない事実ではあるのだが,それをあまりにも漠然と受け止めているのではないだろうかと。
自分は見られる側で,見る側の思いというのはどういうものなのだろうと。
そして,自分の過去を振り返った時、ある事実に思い至った。
僕にもそういう時期があったのだと。
その人の事ばかりを追いかけていた,その人しか見ていなかった瞬間が・・・

あれは中高生の頃。
あるアイドル歌手のファンクラブに入っていて,コンサ−トにも何度も出掛けていった。
当時は,重たいラジカセを膝の上に置いて録音していた。
そうなのだ,それが出来た時代でもあったのだ。
ファンレタ−も一度出そうとした事があった。
6〜7枚書いたと思うのだが,結局出せず終いで終わっていた。
投函する勇気がなかったのだ。
内容は他愛もない事だったと思うのだが,「あのコンサ−トの時、目が合いましたよね」といったような事(笑)を書いていたのは何故だか憶えている。
とにかくその歌手のファンでいて,部屋一面にポスタ−を張り、歌を聴いているだけで、その歌手の事を考えているだけで幸せだった。
毎月発売される,明星や平凡(当時一番のアイドル誌)が待ち遠しかったものだ。
勿論,ファンクラブの会報も。
しかし,その熱もいつしか冷めていき、僕の部屋からはその歌手のポスタ−は姿を消し、LPやシングルレコ−ドは片隅に追いやられていった。
それ以来,あの時のような、「ファン心理」になった事はない。

サインを貰った事が一度だけあった。
日本全国をギタ−一本とハ−モニカを持って、自転車で渡り歩いたあるシンガ−ソングライタ−の本と、ニュ−アルバムがリリ−スされた時に行われたミニ・ライブ&サイン会で、本かLPのどちらかにサインをしてもらった。
あれは新宿の紀伊国屋書店内で,僕は19歳だった。
それから暫くして,僕は声優の道を歩み始めるようになるのだが、あれ以来、自分がサインをする事はあっても、サインをして貰うという事はなかったように思う。
時々,僕がデビュ−した頃にサインした色紙等を、「今も大事に持っています」とファンレタ−に書かれてあったり、言われた事もあるのだが、ありがたいと思いながらも、そこまだしていてくれる気持ちというのが正直いってよく分からずにいた。
(しかし,前述した自分がファンだった頃を憶いだすと納得出来るのだが)
もしかすると,いや、多分「見られる側」というのが当たり前になってしまっていて,心のどこかが麻痺してしまっているのかもしれない。
そんな事を考えていると,少し不安になってきた。
僕は今の自分の仕事を,他の仕事より優れているとか、特別だとかは思っていない。

どの仕事でも同じように大変で,優劣等ないし、だから,TVに出るのを生業にしている人間で、偉そうにしている人間を見ると腹がたつ。
ただ職種が違うだけなのに,何を勘違いしているのかと。
そんな風に思っている自分が,色んな物を貰うような事に対しても、それが当たり前のような感覚に陥っている様を気づかされると、呆然としてしまう。
最近は人前に立つ機会が多くなってきたので尚更感じるようになったのかもしれないのだが,「誠意」という部分が、自分には少し欠落しているのではとも思ってしまう。

そしてそれを気づかせてくれるのが,皮肉にもイベントであったりする。
「今回凄く大切なものを頂きました」
等のファンの方の言葉を聞くと,「そうじゃあない、こっちがずれているのを気づかせてもらって、感謝しているんだ」と心の内で呟いしまう。
知らず知らずの内に,というのが一番やってはいけない事で,でも本当に知らず知らずの内に,自分が予期していなかった方向に進んでいたり、自分の嫌いな人間に自分がなっていたりする事がある。
そんな事を考えている内に,自分ももしかしたら、「ファン」の人達と同じ位置に立っているのかも、等と思っていた。
お互いに,何かを感じ、ありがとうと素直に言える関係。
うちの事務所のモット−でもあるのだが,役者とスタッフはフィフティフィフティという関係。
僕達とファンの間にも,細かい違いはあれど、そう在る事が出来れば、それはとても素敵な事ではないのだろうか。
その為にも,しっかりと足元を見つめていなければ。
真中の存在である,「語る事」が疎かにならないように。

「ファン」と「役者」のいい関係は,絶対構築出来る筈である。
この間のイベントでの,凄まじい程の客席との一体感が生まれた瞬間を体感して、僕は確信していた。
そして,「ライブ」でしか生まれないものもある筈だと。
そこで得たエネルギ−により,自身が活性化され、新たなる側面が刺激される。
その繰り返しにより行きつく先が,「紋切り型」なのか、「発展型」なのか。
いづれにしろ,そこには「ファン」の人達の存在が不可欠で、彼等彼女等も、様々な事を体得し、それを次に繋げているのではないだろうか。

「見る側」と「見られる側」
客席とステ−ジ。
両者が成熟していかないと,成り立ち続け得ない世界。
このエネルギ−が無駄にならぬよう,しっかりと胸の奥に刻み込まなければ。
そして僕はステ−ジに立ち続ける。
「フィフティ・フィフティ」
その言葉を抱きつつ,真っ白な光に向かって。

「客」のいない「客席」等考えられないし,「出演者」のいない「ステ−ジ」など考えられな
いのだから・・・



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