「裸足のシンデレラ」〜アゲインストを突き抜けて〜 |
「気持ちは繋がってたから大丈夫だよ」 そう語りかける僕にKさんは,「ホントですか、ありがとうございます!」と、あの真っ直ぐな瞳で微笑み返してくれた。 スト−リ−も又新たなラウンドに入り,後半戦へと突入した、初回の事だった・・・ 「集中」するという事は,そう難しくない事だと僕は思っている。 ただ注釈を付け加えさせてもらうとするならば,「短時間」に限ってとなるだろうか。 集中を途切れさせないで持続させていくという行為は,出来そうでいて中々出来ない。 僕達が昔,レッスンを受けていたある先生には、それこそ何度も何度も「途切れぬ線」の話をされていた。 例えば,自分の役が画面上は出ていなくても、その人の生活導線は繋がっているのだから、見えていない部分をどうキチンと捉えて補えるかが大事なんだと。 例えば,その人物の詳細が定かではない場合、生い立ちまで含めて自分の中で構築していく事が大事なんだと。 だから,喋り続けている役ならまだしも、時々しか喋らない役や、最後に一言だけ喋るような役であるのなら、そこに到達するまでの間,スト−リ−の裏で展開されているであろう行動を想像し、それを時間を追って追いかけるという事をしなければいけないのだと。 その合間には,食事をする事もあるだろうし、生理的欲求を満たす事もあるだろう。 この「想像」は,「発想の転換」と並び、非常に重要な要素として、僕達は繰り返し聞かされていたものだ。 しかし,10分・20分・30分と長くなるにつれ、その間休まずに集中を維持する事は並大抵の事ではない。 (洋画の場合、長くて30分強となるロ−ルも多く、ト−タルして1時間半から2時間余りそれを持続するとなるといかに大変な事であるかはお分かりいただけるかと思うのだが、NAの場合「間違えるまで」という現場もあるのは事実だ) 人は,どこかで必ず気が抜けるものだ。 イヤ,抜けてしまうものだ。 特に自分一人だけではなく外的要因が絡んでくる場合は。 ただ一番はやはりメンタル面で,ダンド−のように、外界から隔絶されたような空間に入り込むといった現象を体験出来るという人間は、それこそ希少だと思われるし、入れたとしても、そう長くは続かない筈なのだ。 それに,ここまで書いてきてなんだが、この「集中」という事を敢えて考え、役に臨む人間がどれだけいるのだろうかと考えてしまう自分がいるのも事実だ。 いや,それともそんな事は当たり前で、新ためて考えるような事ではないのだろうか。 自分に関して言えば,先生に口をすっぱくして言われていたからと言うのもあるが、当初は愚直にそれを実行に移し、ままならない結果にその場から逃げ出したくなる衝動を抑えながらも、何度も何度も挑んでいたように思う。 そして。 何時の間にか,その思いは遙か後方に押しやられてしまっていたようだ。 何時の間にか,そのような事を考えなくても、特別にそのような事を思わずにも、役に対していけるようになっていったようだ。 何も考えない,空白の部分には,自分が培ってきた「役を生きる」というエッセンスが自然に滲んでいったようなのだ、アプロ−チをせずとも。 そうなのだ,いつしか「集中」するという事に対する、「ON」と「OFF」というものが、自然に身に付いてきたようなのだ。 しかし。 と僕は思う。 人を生きる事が,楽な行為であっていい筈はないのだと。 確かに,あるセリフに入った時に「そこに至るまでの心の動きが垣間見えます」等と言っていただけるとこちらは凄く嬉しかったりするのだが、実際はどうかというと、生活導線は所々で寸断されていてのブツ切れ状態では、「本当にこれでいいのだろうか」「イヤ、これでいい筈がない」という自問自答を繰り返すばかりで、楽な方を選ぼうとしている自分がいる事に驚愕し、その割合が多くなりつつある現状を垣間見る度、身体の底から、魂の底から、「何か」を振り絞ろうとはしているようなのだ。 誤解のないように言っておくが,「ON」と「OFF」が上手く使い分けられたら、それは素晴らしい事だろうし、決してそれが楽だ等と短絡的な考えは持っていない。 ただ,「集中」をしっかり持続出来ない自分というものに、歯痒さと同時に、腹立たしさのようなものを感じてしまうのだ。 これは,ただ単に僕だけの問題なのかもしれないのだが。 確かに自然に当たり前に「集中」する事が出来れば一番いいのだろうし,「構える」という行為なく中身に入っていく事が出来ればそれにこした事はないのだろう。 そう,本当に「集中」する事が出来ているのならば・・・ そういった意味では,Kさんはダンド−に「集中」している。 見ているこちらが,思わず「大丈夫か」と声を掛けたくなる程、または逆に、声等掛けられない程、集中している。 アフレコでは,テストの時に、本番では絶対使えないであろうアドリブを言ったり、ワザと外したりと、各々が様々な事を試してくる、というか仕掛けてくる。 それがものの見事に相手のセリフにかぶっていたり、かき消したりする程だったりする場合もある。 勿論これは作品の質によっても左右されてくるのだが,「ダンド−」はそういったアドリブを、試しに楽しみながら入れてみてもOKな現場の一つなのだ。 (勿論,そのセリフの言い回しや感情の表し方を変えるだけという方も多いし、普通にやっているのに何か笑いを誘うという方もいる) 自分の前の人が可笑しかったりすると,次のセリフを言う人間は吹き出してしまったり、周りも大笑いをする事があるのだが、そんな状況の中でも,Kさんは、ブレないのだ。 自分の道を真っ直ぐに進んでいくのだ。 先日,飲んでいる時にその話が出たのだが(この時もKさんはいなかった),「あれだけ突っ込まれてるのに、Kさんは微動だにしないもんねぇ」「会話をしているY君があんな風に返して,周りは大笑いだったのに、Kさんはダンド−のセリフを何事もなかったかのように続けてたもんねぇ」「他人(ヒト)のセリフを全く聞いてないのかなとも思っちゃうけど」「でもそれだけ集中しているって事は凄いですよね」「自分が主役だっていう思いもあるのかもしれないしね・・・」等等、思い思いの感想を述べ合い、いささか無責任とも思える言葉の遣り取りをしていたのだ。 僕は皆とそんな会話を交わしながら憶い出していた。 走り始めたばかりの頃の若かりし自分の姿を憶い出しながら,そこにKさんをオ−バ−ラップさせていた。 唐突に視界が開け,僕の中のもう一人の僕が、「そうじゃあないんだ!」と叫んでいた。 「彼女は誰よりも真ん中を歩もうとしているんだ」と・・・ あの頃の僕は,それこそ台本と首っ引きだった。 テストが終わってもその場所でブツブツ言っていたり,スタジオの奥に言って何やら運動をしていたり、席に座っても自分の場面の映像を思い出しながら、シュミレ−トを繰り返していたり。 ある一連の動作をマイク前でした後,自分にスイッチを入れ、役と自分を重ね合わせ、最後に心の中で「〜今日もヨロシクな」と、自分の生きる役に語りかけていた。 その「儀式」のようなものを経ないと,僕は「向こう側」へ行けなかったのだ。 というよりも,行けるかもしれないという曖昧な気持ちの、それが拠り所でもあったのだ。 そして私語等は全く考えられなかった。 何か他の事を話すと,大事なものがどんどん零れ落ちていくような気がして、それが怖くて、だから、役の事以外に目や耳を向ける事を、極力自分に禁じていたのだ。 話しかけてくる人に対しては,受け答えはしていたと思うのだが、意識は常に台本の中に向けられていた。 だからと言って,他人(ヒト)のセリフを聞いていなかった訳ではなかったと思うし、「違う事を言ったな」と認識してはいたのだ。 ただ,自分がそこで本当に笑ったり動揺したりしたら,もう二度とその世界には戻ってこられないような気がしていた事は確かだ。 何故なら,一度切れた線は修復する事等絶対不可能なのだと、真剣に考えていたからだ。 それが決してそうではないんだという事を,僕は後年、様々な経験の中から知る事になるのだが、その時は、そんな余裕は微塵もなかったし、何よりも自分に対して「自信」が持てなかったのだ・・・ フラッシュバックする記憶の中,Kさんの佇まいが脳裏に揺れる。 そうなのだ。 彼女も多分,自分と同じなのだ。 Kさんに確認したわけではないが,きっとそうなのだ。 「ダンド−」として生きられなくなるかもしれない事が,「ダンド−」でいられなくなるかもしれない事が、「ダンド−」しか見ていない自分でなくなるかもしれない事が、怖いのだ。 少しでもそんな事があったら,もう「ダンド−」と深い所でシンクロ出来なくなってしまうんではないのかと、それが、怖いのだ。 もし自分が,もし、もし、もし、もし。 そして,そんな自分は、許せないのだ・・・ 冒頭の文章に戻るのだが,あの時,何故僕はあのような言葉を掛けたのか。 それは,少し前に遡るのだが、彼女に、一度「息」について問われた事があったのだ。 「僕は一番難しいのは息だと思ってるんだ」「呼ばれた時に振り返りながらだったり」「考え事をしていて顔を上げた時だったり」「誰かを見つけた時だったり・・・」 その時その時の心情によって,微妙に変化を遂げるであろうそれらの「息」達。 「言葉」よりも,よりその物語の中に入っていないと、よりそのキャラクタ−を深い所から掴んでいないと、生まれてこないであろう、最もファジ−で儚く、最も強く心を揺さぶる「魂の欠片」 それが,ただの「音」となるのか、その人物の全てを現わしているかの如く、聞いている人の琴線に触れる「命ある響き」となるのか。 「息」の事で悩んでいたKさんに,そう、僕は話し始めていたのだ。 それからKさんは,「やってみます!」とチャレンジを始めたようだったが、「中々うまくいきませんね」と唇を噛み締める事を繰り返していたようだ。 そんな中,今回の現場での、後半・本番。 勿論,彼女はいつも一生懸命だし、まるでダンド−がそこにいるかの如くの「命の輝き」を見せてくれてはいるのだが、特にこの回は、ピンと一本の線が張り詰め、「気づきの息」やセリフ等を含めた全てに、 Kさんの気持ちが、ダンド−と完璧に一体となって現れていた。 そう僕には感じられたのだ。 終わった後,不安そうに俯いていた彼女に、そんなKさんに、僕は言葉を掛けずにはいられなかった。 「心配しないで,大丈夫、良かったよ、気持ちはちゃんと繋がってたから」と。 その後にリテ−ク(録り直し)の箇所がいくつか出たのだが,それは又別の話だ。 瞠目すべきは,彼女の「線」が、途切れる事がなかったという事なのだ。 全てに神経が行き渡っていたという事なのだ。 僕は彼女に対して,それ以上言う言葉を見つけられず、ただ頷く事を繰り返していた・・・ 彼女は今日も,僕だけでなく、総監督や、音響監督や、ミキサ−や、プロデュ−サ−や、同じ出演者に、疑問に思った事、不安に思っている事を聞いて廻っている。 僕が他の人に中々聞けなかった事を考えれば,凄い行動力だ。 始まる前,そして終わった後に、総監督や音響監督と、話し込んでいる彼女の姿もよく目にする。 「一日たりともダンド−を忘れた事はないんです」 「ず〜っといつまでも終わらなければいいのにと本当に思っているんです」 その言葉は,それ以上でもそれ以下でもなく、そのままの意味で僕の気持ちの真ん中に響いてくる。 裸足は,今ではすっかり彼女のトレ−ド・マ−クとなったようだ。 その裸足の下には,スタジオのカ−ペットではなく、フェアウェイの、芝生の感触を感じているのだろう。 今は,自由に思いのまま羽ばたきながら、集中を途切れさせぬ事を考えながら、このまま行って欲しい。 切れた線が,実は瞬時に修復出来る事や,他の話をしていてもマイクの前に立った瞬間「向こう側」に行ける術等は、現場を、経験を真摯に重ねる内に、何時の間にか自分の中で育まれている事だろう。 そして,その胎動を感じた瞬間、己の内に芽生え始めた新たな声を聞く事になるだろう。 君よ,その類稀なる「集中力」「持続力」「瞬発力」と「生来の真っ直ぐさ」で,迷わず挑んでいってくれる事を僕は願う。 そして周りにいる「仲間」を信じて欲しい。 スタッフも含め,皆、君の味方なのだから。 君の放つ輝きは,どんなアゲインストにもビクともしないだろう。 そして,それを突き抜けた先に広がる遙かなる蒼穹目指して、全力で翔けて行って欲しい。 どこまでも,どこまでも、君は飛んで行けるのだから。 そう,どこまでも、どこまでも・・・ |
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