風のように光のように・・・
(歌と漂白の日々)
 
中原 茂

 

 

 

第一章
あの頃,僕が歌に対してどういう思いを抱いていたのかは定かではないが、「プロ」になりたいと思っていた事は確かだ。
フォ−クソングと出会う前,僕は歌謡曲が好きな少年で、桜田淳子さんの大ファンで、ファンクラブにも入っていた事がある。
当時,重いラジカセを持ってコンサ−ト会場に行き、ヒザに置いて録音したりもしたものだった。
その時代,なりたい職業のNO.1は、「歌手」だった。
歌番組も隆盛を極めており,「スタ−誕生」が、歌手への登竜門として、燦然と光り輝いていた。
かくいう僕も,その「スタ−誕生」を2回程受けた事がある。
唄った歌は,両方とも加山雄三さんの曲だったように思う。
ただ2回とも一次オ−ディションで落ちてしまったのだが・・・
オ−ディションは,有楽町のそごうデパ−トの上にある読売ホ−ルで行われていて、オ−ディション当日(日曜日)には、それこそ6Fか7Fだかのホ−ルの前から1Fまで、長蛇の列ができていた。
それ程,何百・何千という数の人間達が、毎回オ−ディションを受けに来ていた。
「スタ誕」のオ−ディションに落ちた後も,僕は歌手になるという夢を追い続け、他のオ−ディションを受けたりしていた。
受かったものもあるのだが,多額なお金がかかったりするもので、親の反対もあり、泣くなくあきらめたりしていた。
それでもやはりあきらめきれない僕は,桜田淳子さんが所属するサンミュ−ジックに、新人開発部というものがあるのを知り、8月・9月の2ヶ月だけという親との約束で、毎週日曜(計8回)、四谷まで通っていた。
高二の夏休みだったと思う。
この2ヶ月が終わる頃から,僕は急激に、フォ−クソングにのめり込んでいったのではないかと思う・・・


 

第二章

サンミュ−ジックで僕の担当だった先生から教わっていたのは,「コ−ルユ−ブンゲン」という基本(発声等の・・・)と、練習曲にしていたのは、「勝手にしやがれ」(沢田研二)と、「私の歌」(松崎しげる)の二曲であった。
松崎しげるさんの「私の歌」は,当時グリコア−モンドチョコレ−トのCMソングで流れていた歌で、その曲の良さと、松崎さんの圧倒的な歌唱力に、僕は心を奪われていた。
「僕も松崎さんのような,歌唱力のある歌手になりたい!」と、強く思っていたのを憶えている。
その頃僕は文通というものをしていて(当時流行っていたと思う),ペンフレンドだった女の子が、FM東京でやっていた松崎さんがパ−ソナリティ−の番組に、「中原君に応援メッセ−ジをお願いします」といった内容のハガキを送ってくれて、松崎さんからメッセ−ジをもらった事がある。
ラジオから流れてきた時,凄く嬉しかったのを憶えている。
その子は,藤沢にあるミッション系の女子校の子だった。
確か,一度文化祭に訪ねていった事があった・・・
やがて二ヶ月が過ぎ,その教室を去る時、担当の先生から、「そうか、惜しいな、18才位のデビュ−を考えていたんだが・・・」と言われ、「あと二年か・・・」と思ったのを憶えている。
でも僕は,親に対して、このまま続けたいとわがままをいうでもなく、サンミュ−ジックを後にした。
あの時,「デビュ−」という言葉を聞いていながら、何故、夢である「歌手」への道が見えかけていたのにあきらめてしまったのかは定かではないが、もしかしたら、「そんなにうまい話があるはずはない」と思っていたのかも知れないし、「シンガ−ソングライタ−」という新たな道を、フォ−クソングというものに傾倒し始めていたからかも知れない・・・
前のエッセイで,テニス部をやめた理由に、「タバコが嫌だったから」と書いたが、実は確かにそれもあるが、あるオ−ディションを受ける事にした時(第一回ホリプロタレントスカウトキャラバン)、ちょうど一年生は全員丸坊主にしなければならず、丸坊主ではオ−ディションは受けられないと思い、やめたのかもしれない。
ここらへんの記憶は曖昧なのだが・・・

 

第三章

歌手からシンガ−ソングライタ−へ・・・形は少し違うが、「唄う」という事では同じこの夢へ向けて、僕は新たに活動を始めていた。
「音楽誌」や「ぴあ」等の情報誌を頼りに,シンガ−募集とか、弾き語り募集とか、名もない事務所の門を叩くべく、僕は何度も東京へ足を運んでいた。
中には,一ヶ月位して再び訪れたら、影も形も失くなっていた事務所もあった。
もちろん,当時僕がこういった事をしていたのは、友達の誰も知らなかった。
「スタ誕」の話しをしたのも,高校を卒業して随分たってからの事だと思う・・・
そして高校を卒業,一応、東海大に入学。
そんな時(だったと思う),地元の茅ヶ崎に、茅ヶ崎フォ−ク村というものがあるのを知り、そこに参加させてもらう事にした。
高校の後半から,僕はオリジナル曲も少しずつだが創るようになっていて、フォ−ク村のライブでは、オリジナル曲しか唄わないようにしていた。
フォ−ク村の定例のライブは,茅ヶ崎の青少年会館で行われていて、当時できたばかりの市民会館でもコンサ−トをやろうという話しが持ち上がり、その小ホ−ルで、フォ−ク村のコンサ−トを行ったりもした。(市民会館のこけらおとしのコンサ−トは「オフコ−ス」で,僕も友達と聴きにいった。確か、アルバム「スリ−・アンド・トゥー」の頃で、バンド編成になって間もない時だったと思う・・・)
あの頃はギタ−がうまい奴が一杯いた。
もう一つあった湘南フォ−ク村とも,ジョイントライブを行っていた。
中にはやはりプロを目指している人間もいて,「こいつならなれるんじゃないか」と思わせる物を持っていたように思う・・・

 

第四章

当時,ヤマハ主催の「ポピュラ−ソングコンテスト」、関東・甲信越地区の予選会に、フォ−ク村の人が出場する事になり、(僕もひそかに応募していたのだが落ちていた・・・)皆で応援に行った事がある。
残念ながらその人は本選に出場する事はかなわなかったが,その人の人柄がにじみでた暖かい歌声は、多くの人の心を掴んでいたように思う・・・
先程も書いた,湘南フォ−ク村の村長をやっていた、斉藤という奴とも仲良くなり、フォ−ク村を離れた所でもライブをやっていた。
ライブといっても,ライブハウスとかではなく、公民館であるとか、市民ホ−ルを借りて、自分達でチラシやチケットを作って行っていた。
今思い返せば,あの頃僕は、随分精力的に「歌」と関わっていたんだなぁと思う・・・
平行して,高校時代に組んだバンド「アドリブ」でも活動をしていて(僕以外は皆社会人だった)、デパ−トの屋上とか、箱根にある観光会館であるとか、僕が唄っていたコ−ヒ−館とか、藤沢にある労働会館やヤマハホ−ル等で、何組かのバンドや個人と共にライブを行っていた。(労働会館でのライブは、チャリティ−ライブで、その時、何件かの新聞に取り上げられたりした・・・)
ヤマハのボ−カルスク−ルという所にも通っていた時期があり,ラストの発表の時、バンド「アドリブ」で、「青春の影」を唄ったのを憶えている・・・

 

第五章

当時は,やはり皆貧乏で、スタジオ等高くて借りられなかったので、母校である城東高校に忍んで練習をしたり、(これって良く考えてみれば犯罪だったかも・・・)ギタ−をやっていた友達が酒屋の息子で、裏の倉庫を貸してもらって練習したりしていた。(この倉庫は元々醤油倉だったようで、醤油の匂いがプンプンしていた)
バンドのステ−ジで今も強く残っているのは,卒業したその秋、城東高校のフォ−ク同好会のOBとして参加した、小田原市民会館大ホ−ルのステ−ジである。
音がフワ−ッと広がっていったあの感じはなんともいえず,あの時の驚きは、今も尚鮮やかに僕の中に残っている。
文化祭では,外部から人を呼ぶというのは始めての事で、職員会議が開かれ、「中原達のバンドならいいだろう」という結論が下され、僕達は演奏する事になった。
特別ゲストという事で唄ったのは,「いとしのエリ−」と「あんたのバラ−ド」そしてアンコ−ルで「青春の影」の3曲だった。(もしかしたら「あんバラ」と「青春の影」は逆だったかもしれない・・・)
・・・それから約2年程,「アドリブ」で活動を続けるのだが、皆それぞれの仕事が忙しくなってきたり、やりたい音楽の違い等から解散、それ以来楽器を触ってもいないという友達もいる。
僕は,一人でもやっていたという事もあるが、唄う事がやめられる訳もなく、毎日のように唄っていた・・・
自分の部屋で唄いながら,僕は、部屋の四角い窓から見える「大きな木」をいつも見ていた。
雨の日も風の日も晴れの日も,その「大きな木」がざわめいている姿を、静かにたたずんでいる姿をみつめていた。
その時の光景は,今でも僕の心の隅に、しっかりと根を下ろしている。
あの四角い窓から見える風景が,あの頃の僕の全てだったような気もする・・・

 

第六章

ある時,ある「シンガ−募集」という広告をみつけ、その事務所にTELして出掛けていった事がある。
そこは,アパ−トの一室で、2人の男の人がいた。
一人は,これから店で歌う唄い手を斡旋していこうと思っている人。そしてもう一人は、日本全国を、ギタ−一本持って渡り歩いている、苦労人だという人だった。
僕はそこに何回か出入りして,2回程、その苦労人の人がつくったカレ−ライスをご馳走になった。
そのカレ−は,なんともいえず旨かった・・・
僕の中に,「歌を唄って食べていくんだ」という思いは強く、ある時友達に、「家をでて一人暮らしをして唄で食べていこうと思うんだ」という話しをした事がある。(その友達は、色々あって、家をでて一人暮らしをしており、当時僕達は、よくそいつの家に泊りにいったりしていた・・・)
でもその友達は,話しをした後、寝る時に、「中ちゃん、家をでるのはやめろよ」と僕に静かに言った。
それからどのような会話をしたのかは憶えていないのだが,友達のその言葉は、僕の決断を大きく揺らがせた事は確かだ。
そして,あの、歌い手を斡旋しようとしている人にも、「中原君はこういう歌を唄っちゃいけないよ、考えたんだけど、君は客のリクエストに答えて唄うというような事はしちゃダメだ、もっと自由に唄うべきだよ」と言われ、「だからもうここにはこない方がいい・・・」と言われた。
この時僕は,確か19才か20才で、雪の中、やぶれかけたハ−ドケ−スを抱えながら、小田急線のホ−ムに一人立ち尽くしていた。「これからどうすれば・・・」と・・・
生きる目標を失っていたといった方がいいのかもしれない。
この事には,前のエッセイで少し触れたと思うのだが・・・

 

第七章

そのうちに僕は,声優という道を歩み始め、違うバンドで音楽活動をやっていた友達も楽器を置き、各々の日常に戻っていった・・・
僕があの頃関わっていた全ての人達の中で,今も音楽に関わっている人間は一人しかいない。
友達や後輩の中には一人もいない・・・
その後僕は25才の時,ある仕事で知りあった人とメンバ−を集め、2度程ライブを行うのだが、その時のメンバ−の一人で、どうしても「プロ」への夢を断ちきれない人がいた。
その人は思い切って会社を辞め「プロ」を目指したが,夢には届かなかったようである・・・
僕はというと,その後ある事がきっかけで唄う事をやめてしまっていた。
歌を生みだすという根本的な意欲が失くなってしまったようであった。
カラオケで唄う事は別として,心の底から唄いたいという思いが失くなっていたのである。
それが最近,「唄いたい」という気持ちが、前にでてくるようになってきた。
「唄えない」と思った時から,実に12年以上が経過している。
僕の中で,失くしてしまったかもしれないと思っていた「何か」が、それはただ眠っていただけで、目を覚ましつつあるのかもしれない・・・
この思いが自然にあふれだした時,僕は再び、唄う事ができるようになるのかもしれない。
何人もの人の歌が僕の心にしみ入ってきたように,僕も人の心にしみ入るような歌が、唄えるようになるのかもしれない。
そんな歌を唄いたいと,僕は唄いだした筈なのだから・・・

 

第八章

あの頃,歌が全て、歌しかないと思えていた、全てが若かったあの頃・・・
あの頃の思いは,しかし消える事なく僕の中に静かに燃え続けている。
あの頃,僕達は、一人のア−ティストがだすLP(アルバム)を、首を長くして待ち続け、手にいれたなら、それこそ擦りきれる程聴いていた。
そのア−ティストの紡ぎ出す世界に,メロディ−に、詩に、心を揺り動かされ続けていた・・・
20年以上たった今も,その人達の作品は、自分の心の中に刻み込まれ、しっかりと生き続けている。
「あれはある種の熱病だったんだよ」,という人がいる。
「若い頃はみんなそうなんだ」,という人がいる。
でも僕はそうは思わない,そんな当たり前の言葉ではくくられたくない。
もし熱病だったとしても,もし若かったからだとしても、あれ程恋こがれ、唄う事でしか生きていけないと激しく思いつめる事ができた「歌」という存在は、僕にとって、「生きる」という事に対してまっすぐに向き会う事ができた貴重な存在だったのだと思う・・・
歌と出会った事で僕は今の仕事をしている。
日々の暮らしの中で漂いながら,風に吹かれ、光にあらわれながら、これからも僕は唄い続けていくのだろう。
様々な思いを歌に托しながら・・・
「唄うように生きていきたい」,「生きるように唄っていきたい」
僕は今,自分の原点を見つめている・・・



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