毎 日 が ビ バ リ ー !

 

 

 

 ・序 章・
     風が吹いていた。たたずんでいる僕の前を、ただ・・・風が吹いていた・・・。僕はその時、11年  目のシーズンのスタートを切っていました。10年・・・この仕事を始めた時から頭にあった歳月が流れ、<ここから・・・>という気持ちだったのを憶えています。
そんな時、突然僕の前に現れたのが、ブランドンでした。ブランドンは、まるで古くからの幼馴染みのように僕の心の扉を叩き「やぁ、元気かい!これからもヨロシク!!」と握手を求めてきたのです。     
・・・そして、その彼の手を握った瞬間から、僕の『ビバリーヒルズ』との長い旅が始まったのです・・・・・。
 
 ・第1章・  
   1992年5月10日(金)、忘れもしない『ビバリーヒルズ高校白書』第1話ARの日・・・
この時はまだ、こんなにも長く続くシリーズになるとは思ってもいませんでした。そして僕が
ブランドン役に選ばれた理由は、ハッキリいって驚くべきものでした。
当時『ビバリー』が始まるにあたって、オーディションがあったと聞きました。聞きましたと書いたのは、僕はそのオーディションを受けていなかったのです・・・。
   Dr.の田島さんとも1話のARの時に初めてお会いして、AR後飲みに行ったその席で「あ    のぅ・・・何故僕が選ばれたんですか?」と疑問に思っていた事を尋ねてみました。
田島さんは今から2年程前にある日本語吹き替え版のビデオを見ていて(その監督さんが好    きでたまたま見たそうです)、そこに僕が出ていて(『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』という  作品で、僕は、リバー・フェニックス扮する・ディーボ・という役をやっていました)その時の   声の感じがいいなと思い、ずーっと憶えていて、何かあった時にはと思っていたそうなんです。   そして<ブランドン役>が最後まで決まらずどうしようかとスタッフと考えていた時、僕の事を   憶い出し、<ブランドン役>彼でどうだろうということになり、決まったということだそうです・・・  ・・。
そういった信じられない偶然の中でキャスティングされたことは、言葉にならないほど嬉しく、 『ビバリー』との出会いには、ホントーに運命的なものを感じました。 (その頃僕は外画をそんな  にやっていませんでしたし、ビデオ版といったら年に何本かでした。だからなおさらですね・・・。といっても今もそんなにやっていませんがハハハハハハ・・・・・)
  昔から僕には、仕事をする上で<誰が見ているか、誰が聞いているか分からないのだから・・・> という思いが必ずあり、仕事に対してきました。(どんな仕事でも・・・)一本一本に集中して、目の 前の仕事に全力であたる。一生懸命あたる・・・。その過程では失敗もあれば後退もあるかもしれな い。しかしいつもしっかり前を見て少しずつでも、コツコツとでもいいから歩き、積み重ねてい く・・・。結果は後からついてくるもので、<あの時のあれか・・・>と思うのはその時にならなければ 分からない事で・・・それが形となって目の前に現れたものの一つが『ビバリー』でした・・・・・。
そして『殺したいほど〜』で僕をリバー・フェニックスの役につけてくれたDr.さんは、今は 亡き山田悦司さんという大ベテランの方でした・・・・・。


・第2章・
 Dr.の山田悦司さんには、外画でもアニメでも大変お世話になりました。いい作品に出会わせていただきましたし、いい役にめぐり合わせていただきました。あとでDr.の田島さんが言っていたんですが「あの人(山田さん)のキャスティングはわかるんだよねぇ、僕と似ていて好きなんですよ」と・・・。・・・あの時『殺したいほど〜』に出ていなければ今の『ビバリー』はなかったと考えると、こんなに劇的な運命的な出会いを、この先自分の人生の中で体験するのだろうかと思います・・・。
 
 ここで少し、山田悦司さんにお世話になった作品をいくつか紹介したいと思います。
 外画では『アウトサイダー』・・・これは、アーツビジョンという事務所にいた頃、事務所のそばで偶然お会いして「あなたにピッタリの役があるんだ」と言われたのを憶えています。それが、ラルフ・マッチオ演じる・ジョニー・という役でした。
 そして先程の『殺したいほど〜』のリバー・フェニックス演じる役ではもう一本、彼が主演した『旅立ちの時』を。ただしこれは残念ながら機内用でした・・・・・。
 アニメでは『ジャングルブック・少年モーグリ・』−この第一話のARが始まる前に「今回は外画もしっかりやれる方々を選びました」というような挨拶があり、自分も認められていると気をひきしめたのを憶えています。
 そして『ふたりのロッテ・わたしとわたし・』のハンス役等・・・もちろん外画やアニメも他にもあるのですが、その中でも特に印象的なものをあげさせていただきました。
 こうやって思い出しながら書いていると、山田悦司さんにも節目節目でホントーにお世話になったんだなぁと思います。そして出会った作品達、役達は自分の中にしっかりと刻み込まれ、今の自分に大きなプラスになっていると・・・。

 山田悦司さんと最後に病室でお会いした時、「今日は久しぶりに調子がよく、しゃべる事ができるんですよ」とおっしゃっていました。「まだまだやり残した事がたくさんあるから」とおっしゃっていました。あの時の山田さんの笑顔と、僕がエレベーターに乗るまで頭を下げて見送ってくださった山田さんの奥さんの姿が忘れられません。
 山田悦司さんはもう亡くなってしまわれましたが、いただいた思いに報いるには(お世話になった方々に対して)マイクの前しかないと思っています。作品の中でしか返す事はできないと思っています。マイクの前で全てを込めて、生きていくしかないと思っています。どんな仕事に対しても・・・。
 少し回り道をしてしまったかもしれませんが、この事は絶対書かなくてはと思ったものですから・・・『ビバリー』の原点ともいうべき非常に大切な事だったので・・・・・

・第3章・
 『ビバリー』が始まった当初は、本当に『毎日がビバリー!』でした。『ビバリー』の事で頭がいっぱいでした。RHは事前にビデオと台本をもらって各自が準備をしていくんですが、例えば、アクションにしっかりあわせて、の開き方にも日本語がしっかりマッチして、あの早さの中で微妙なニュアンスを出していく・・・その為には何回も何回もビデオを繰り返し見て、何時間もかけてARにのぞんでいました。ARが始まった時は、一週間に4本とか3本のペースで録っていました。BSでもレギュラーの時間帯とゆうのが決まっておらず、4日連続とか5日連続でオンエアーされていました。
ブレンダ役の小金沢さんとも、スタジオ内ではホントーの兄妹のようでしたし、ジム役の朝戸さん、シンディー役の一城さんともども、もう一つのウォルシュ家を構成していたように思われます・・・。
 あの頃は僕の頭の中は『ビバリー』でいっぱいでした。それほど『ビバリー』に情熱をかたむけていました(おおげさかもしれませんが他の仕事は考えられない位に・・・)
Dr.の田島さんも時間をかけて台本を作る方で、『ビバリー』一本に随分時間を割いていたように思われます。そしてその田島さんと、ARの度にディスカッションをかさねて、信頼関係を築いていきました。一話の時から「中原君、次回のこの場面だけど、ちょっと変えたいと思うんで中原君もちょっと考えてきてくれるかなぁ」と意見を求められ、僕はこうしたほうがいいんじゃないかと思うアイデアを持っていき、その場で照らし合わせて決めていくといったような・・・そんな風にしてセリフのニュアンス等も話し合っていきました。
 僕は今まで外画のレギュラーとゆうものをやった事がなかったので、これだけコミュニケーションをとってやるのは初めての体験でした(セミレギュラーでは『ファミリータイズ』がありましたが・・・)
そして、何といっても『ビバリー』を語る上で忘れてはならないのが、毎回のように次の日の朝方まで飲んでいたとゆうことです・・・。

・第4章・
 これから出てくる2つの店は今はもうありませんが、副題をつけるならまさに〔酒とカラオケとビバリーの日々!〕でした・・・・・・
今思い起こすと『すごい事してたなぁ・・・』と思うのですが、あの時はそれがごく自然な事でした・・・・・当時ARの終わる時間は15時過ぎ位でした(お昼休みをはさんで)。長い時には16時位までかかっていました、そして、早い時には15時過ぎ位から飲み始め(その時の・ジャンプ亭・とゆう店は、昼間はなんと、うどんをメインにした定食を出していました。アルコールはいつでも飲め、和も洋も中も、値段も非常に良心的で料理もバラエティーに富んでおいしく、僕達は超常連客でした・・・)ジャンプ亭に23時か24時頃までいて(すでにもう8時間位は飲んでます)
 そして、その・ジャンプ亭・の上の階にある・おんちくらぶ・とゆうカラオケスナックのような所へ行き(ここも同じく超常連客でした)2時位まで歌い、飲み、そしてなんとコスモスタジオ(ビバリーのARをやっているスタジオ)の隣のコスモプロモーションの事務所でバーボンを飲むとゆう(4時か5時位まで・・・)・・・今ではとても考えられない行動をとっていました(今やれといわれても絶対無理でしょう・・・でも時々なら今でもありますがハハハハ・・・)
 僕はそんなに飲めるわけでもなく、いつも飲みにいくタイプではなかったのですが『ビバリー』の時は必ずといっていいほど飲みに行ってました。飲みに行くことが楽しくて仕方がなく、当たり前の事のように思っていたのだと思います・・・。ジャンプ亭は洋風居酒屋風のところで(なんと焼酎がなく)僕がよく飲んでいたのは、桂花陳酒(漢字が違っていたらゴメンナサイ)、そしてバーボンでした。バーボンは田島さんが好きでよくボトルを入れていたので、それもあって僕も好きになりました(ウイスキーは好んで飲まないんですが、バーボンの方は飲みますね)・・・・・
 しばらくはそんな生活が続いていたように思います。今となっては夢のような(これもちょっと大げさかもしれませんが)時が過ぎて行きました・・・。

・第5章・
 ・・・『ビバリ−ヒルズ高校白書』が始まった頃の第一シリ−ズ位までは、サブタイトルもしっかり憶えていました。第何話が〜、とゆうように、そしてその話を細かく憶えていました。今でもいくつかのシ−ンは映像とともに思い出すことができます(その時のゲストの名前や、その役をやった<吹き替えた>人の名前も)・・・。
 高校白書の最初の頃は、一話完結で、その時々のアメリカの抱える問題がタイムリ−に取りあげられ、一話ごとにブランドンの相手の女の子も違いました。いつも2〜3本の話題が同時進行で語られ、その話の中心はだいたいブランドンでした・・・『ビバリ−』のセリフの量には目をみはるものがあり、台本は、まるで長尺(90分以上の外画)程のペ−ジ数でした。そのセリフを皆さんも御存じのようにブランドンはあのように流暢にしゃべり(僕は毎回綱渡り状態でした。自分でそうしていたともいえなくはないんですが・・・)
毎回色んな女の子と恋に落ち、別れ、また恋に落ち、を繰り返し・・・ちなみに高校白書のラストの方でブランドンがディランに「今まで出会った女の子達の中で一番心に残ってるのはどの子だ」とゆうような事を聞かれた時、ブランドンは<トリ−シャ>と答えました。僕も<トリ−シャ>が一番チャ−ミングで素敵な子だと思っていたので、この偶然にも少し驚きました(『氷の上の青春』にでていた子です)・・・仲間内では「ブランドンが一番最低だよね」とか「ああゆう、僕は何も悪くないみたいな顔してる奴が一番危ないんだよね」とか言われてました(ハハハハハハ・・・・・)
これぞ『ビバリ−ヒルズ』といえるのは、やはり高校白書の第一シリ−ズ・第二シリ−ズ位までではないかと思っています(こうゆう声は案外聞くんですが・・・)先程も書きましたが、一話完結で、アメリカが抱える問題をタイムリ−に取りいれていきつつ、ウォルシュ家とゆうアメリカが今はなくしてしまったのであろう家族の理想の形を中心に、物語を進行させていく・・・僕が好きだったのは、家族の会話もそうなんですが、ブレンダとの会話でした。ベットル−ムやリビィングやバスル−ムで語られる、何気ないブレンダとの会話が一番好きでした。そういった、ほんとうにさりげないやりとりとゆうのが、僕の一番やりたいことでもあったからです・・・<あたりまえにしゃべる><自然にしゃべる>それが僕の、そうなりたいと思っている.そうありたいと強く思っている事だからです・・・・・。

・第6章・
 ・・・『ビバリ−ヒルズ』のまんなかにあったウォルシュ家はもうありません、家族が会話をする事はもうありません(番組中ではあの家は残っていますが)・・・しかし、今も顔をあげれば、ブレンダが部屋のドアを開けて顔を出し「兄貴何やってんの!」と、あのチャ−ミングな笑顔とともに入ってくる姿を、ハッキリ思い浮かべる事ができます。ミネソタの田舎からビバリ−ヒルズへ越してきた時のブランドンは、本当に田舎くさく(笑)しかし、まぶしい位に輝いていました。・・・『ビバリ−ヒルズ高校白書』第一話の冒頭シ−ン、朝、ブランドンがベッドで寝ていて、ゴジラの目覚し時計が鳴り始め、それを手さぐりで止め、目を覚ます。今日からウエストビバリ−に登校するとゆう初日、不安と期待で胸を膨らませていたであろうブランドン・・・僕もそのシ−ンをARしながら、暗闇の中、これから始まるこの物語への期待と、主役とゆうプレッシャ−に緊張しながら、新たな一歩を踏み出しました。その一歩から、もう随分遠くまできたんだなぁと思います。振り返ってもスタ−ト地点は遥か遠く、そこを見る事はできません。しかし歩んできた日々は確かに僕の中に存在し、カリフォルニアの風や光は、変わらずブランドン達をやさしく包んでくれている、そんな気がします・・・・・
 様々な事が、本当に様々な事がこの7年間にありました。仕事でもプライベ−トでも・・・苦しい時、悲しい時、楽しい時、いつもブランドンが側にいました、『ビバリ−ヒルズ』がそこにありました。いつもと変わらぬ友のぬくもりがありました・・・僕の送別会の時、佐々木 望君が「中原さんの座っていた席には誰もすわれませんよ」と言ってくれました。僕は嬉しかった、そうゆう思いが嬉しかった!(実際は人数が多くなるとそこだけ空けておくとゆうのは無理な事なので・・・・・)
 コスモスタジオのドアを開けて、左端、スクリ−ンに向かって右の隅が僕の席でした。4本あるマイクのうちの右端の一本が、僕の使うマイクでした。毎週毎週スタジオ近くの<ドト−ル>に9時10分位に入り、Aサンドもしくは菓子パンとミルクティ−を注文し、もう一度台本を読み返して、最終チェックを終えてからスタジオに入る。
そしていつもの席に座り、明かりがおち、マイクの前に立ちテストが始まる・・・・・それはいつのまにか、あたりまえの、日常生活の一部になっていました・・・そう、空気のような・・・・。

・終 章・
 ・・・送別会、カラオケのオ−ラスに僕が歌ったのは『心の旅』でした。「ビバリ−に終わりがあって、心の旅がはじまる」と、とっさに歌詞をかえて歌ったのを憶えています。隣にいた安達さんが、その時しっかり肩を抱いてくれたのを憶えています。
 ・・・・・正直にいってまだ僕には、終わったとゆう事実が信じられないでいます.半分は分かっていて半分は分かってないとゆうか・・・・・・。
だから・・・だからまだ<ビバリ−ヒルズ>に<ブランドン>に、さよならはいいません。突然また、僕の心の扉を叩き「やぁ元気かい、これからもヨロシク」と、ブランドンが彼とくゆうの人懐っこい笑顔で、僕に握手を求めてくるかもしれませんか・・・・・・。

                           
 「毎日がビバリ−!」 ・完・



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