縁の下の力持ち


「ガヤ」と呼ばれているものがある。
「洋画」や「アニメ」の吹き替えでは,一番難しいとされている部類に入り、おろそかには決して出来ない
ものだ。
僕は「ガヤ」の語源というのをちゃんと知らないのだが,「外野」からきているのではないかと密かに思ってい
たりする。
昔も今も,いや、特に昔は、「ガヤ」から入り、それから「兵士A」や「男1」や「客」とかの役を付けられるようになり、
やがて(勿論皆という意味ではないが)「主役」を任されるようになる、という道筋をだいたいの人間が歩んでいたのだ。

「ガヤが出来れば一人前」

これはもう,何度も何度も言われた事であり、その為のレッスン等もあった。
その代表選手が,「3分間スピ−チ」であろう。
僕達がレッスンを受けていたディレクタ−から初めて教わったものだ。
例えば,自分のプロフィ−ルを3分間で述べる。
例えば,「携帯」というお題を出され、それについて3分間喋る。
その頃は,夜寝る前に必ず一つは「3分間スピ−チ」をシュミレ−ションする事を課題とされていた。
故に,皆を前にしてのスピ−チというものも何度もあった。
「3分」は長い。
やってみると分ると思うのだが,「1分」でもとてつもなく長く感じる。
勿論,事前に話す事が分っていて、準備する時間があれば、対応する事はさほど難しくはないと思うのだが、
その場で言葉を紡ぎ出していくというのは非常にしんどい作業になる。
ただ喋るというのであれば,言葉のタレ流しで良いというのであれば、悩む必要もない。
しかし,「中身」を求められるのであるから、きつい作業になる。
これには,まず、喋るという事に慣れるという要素も入っている。
喋る事に慣れていないから,余計な事を考えてしまい、尚更喋れなくなってしまうのだ。
それが除々にクリア−されていくと,やがて「現場のガヤ」に生かされていくようになる。

「ガヤ要員」という言葉がある。
これは読んで字の如しで,「ガヤ」の為だけに呼ばれた人達の事を指す。
僕も昔,それだけの為に現場に入っていた事がある。
洋画の現場で,何人かでバスケットボ−ルをしているというシ−ンだった。
幸運な事に,そのディレクタ−の仕事では、後に「準主役級」もしくは「主役」を任される事が多くなったのだが。
その時言われたものだ,「うまいへたではなく、その人がどのように役に取り組んでいるかをブ−スからは見て
いるから」と。
無論全てがそうであるというわけではなく,しかしそういった事が一つでもないと、この世界で生き残っていく事
は非常に困難になる。
あの頃の僕は,それこそ何でもやるという気概に満ちていた。
「ガヤ」も率先してやるし,洩れている役があったら全部やる位の意気込みであった。
若い頃は「ガヤ」等をやるのは僕等の役目であり,それこそ目を皿のようにして「画面」を見ていたものだ。
それは,「一度見ただけで画(え)をしっかり憶えろ」と言われ続けていたからであるのだが。

「キャプテン翼」というアニメがあった。
アニメの場合,収録当日に、フィルム(今はビデオ)を見るのだが、そこで洩れている小さな役が多く、僕とT君を
中心とした若手がそれらを全てチェックし、各々にその場で振り分けるという役回りをやっていた。
当然自分達だけではまかないきれないので,先輩達にもお願いする事になり、毎回現場は、マイク前の交通整
理が大変であった。
マイクは普通,3〜4本立っているのだが(2本という場所もある)、出演者が多くなればなるほど、セリフの度に
マイクを渡り歩くという事にもなる。
「このセリフでは右端のマイク,次のぺ−ジは全て左端に移動」といった具合に。
そして,そのマイクの右に入るのか、左に入るのか、真中に入るのか。
この番組での持ち役というのは僕にもあったのだが,5役位はザラで、一声も含めると、10役位という時も
ままあった。
そしてこういったサッカ−アニメ等のスポ−ツものの場合、アナウンサ−役の方がいると「別録り」だったりする
のだが、「キャプテン翼」は一緒に録っていたので、毎回凄い緊張感に包まれていた。
それは何故かというと,アナウンサ−のセリフはその方に任されていたので、テストの時にタイミング等をしっか
りチェックし、測っていないといけなかったからである。
僕達は,アナウンスの合間を縫い、人の合間を縫いながら、必死に声を出し続けていた。

洋画でも,例えば「ウエスタン映画」の場合、銃の撃ち合いのシ−ンで、それこそ、何人、何十人もの人が撃た
れていく。
それらの「やられ」を全部つける場合も間々あり,だから僕達は、そのシ−ンもしっかりと頭に叩き込み、台本に
書き止めていた。
それが一人なのか,二人なのか、といった事も含めて。
洋画の場合,今は事前にビデオを渡され(アニメにも増えてきたようだ)、各自がリハ−サルをやってくる事にな
っているのだが、以前は、だいたい前日に「リハ」の時間というものが設けられていて、その場で、出演者全員
が一同に会して一度見るだけ、というものだった。
台本も,リハの、早くて30分位前に出されてくるといった具合だったと記憶している。
だからチェックしきれないままビデオがスタ−トする事も多かった。
あの頃はそれが当たり前だったので,当日、テストの時に見極めなければいけないという緊張感の只中にいつ
も身を置いていた。
しかし,集中していると「体」が自然に反応し、対応してくれるようになっていった。
今となってはそのような事はもう出来ないのではと思うのだが,確かに「残像」はあの頃の方が遥かに残ってい
たと思う。
しかし「ガヤ」というものに変わりはなく,「中身」に関しては言わずもがなである。

「歓声」や「街中」「オフィス」「クラブ」「記者達」といったような,集団のガヤ。
先程書いたウエスタンのような,個人のガヤ。
昔は,それこそ、「一言幾らな」とディレクタ−と取り決め、それこそ数多くの一言を喋ったという無頼の先輩も
存在したという。
「たかがガヤ,されどガヤ」
僕は今,自分より年下が多くいる現場では、率先して「ガヤ」を演る事はなくなった。
というか,わざと引く事にしている。
イスから立たない事さえある,そうは言っても体が反応してしまっている時もある。
勿論、大勢が必要なガヤの場合は率先して立っているのだが。。
あの頃,苦しい現場を踏んできたから、踏む事が許されていたから、今の僕がある。
こんな甘ちゃんの自分でも,まだ生きている事が出来る。
マイクの前では誰でも一人だ,と同時に、一人ではない。
そして,「メイン」「名前のある役・ない役」「ガヤ」に限らず、マイクの前では誰もが主役である。
それは決して忘れてはならない事であり,忘れてしまいがちな事だ。
どちらが重い,どちらが重要・大切等、ありはしないのだから。
「命」に優劣がないように。
ただ、一つ確かな事は、マイクの前が全てだという事。
それ以外,ありはしないのだから。
そこで何が・・・
一日でも,一時間でも、一分でも多く、マイクの前にいたいものだ。

「ガヤいきます!」

今日もその声に,自然に立ちあがる自分を感じていた・・・


2003/5/13(水) 16:21 茅ヶ崎「ドト−ル」にて


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