スタ−ティング・オ−バ−

 



  「ボイス・ア−ツ」

この響きは,何だろう、少し特別な音色を伴って僕の中に染み渡っていくようだ。
懐かしさと、ちょっとした痛みと、悔恨の欠片を伴って。
21歳の時からここで過ごした約3年は,確かに濃密な時間であった筈なのだ。
「ボイス・ア−ツ」とは,新劇をしている女性達(7人程だったと記憶している)が、マスコミの仕事をする為にはどうすればよいのかと考えた末に、スタジオを使って現役のディレクタ−にレッスンをお願いしよう、とつくられた勉強会の形も持ち合わせたグル−プだった。
当時は今のように,各プロダクションに養成所等もなく、マスコミ・声の仕事をするには、大手の劇団に入り劇団員になリ、もし運が良ければ、十年位たって声の仕事も出来るようになるかもしれないという程度のものであったからだ。
そして「プロダクションには入れないよ」と言われていた,そんな時代だった。
そういう意味では画期的な試みであったのだ。
週に一度(何曜日かは忘れてしまったが),僕達はレッスンに通っていた。
「六本木ア−トセンタ−」
今でも撮影スタジオとしては有名なそこに,当時は「録音部」という部署が存在していた。
そこを拠点としていたのが,僕達に指導してくれていた大御所のディレクタ−であるKさんであった。
実は僕はKさんとは「ボイス・ア−ツ」を受ける前に面識があった。
専門学校にいた時の僕のクラスで,ラストの二ヶ月間だけ教えていただいていたのだ。

その時の始めての授業は衝撃的だった。
今までの講師の方が仕事の都合上どうしても駄目になり,Kさんに白羽の矢が立ったという事であった。
「俺は嫌だと断ったんだが,Kさんそこを曲げてお願いすると頼み込まれて渋々受けたんだ。
俺は君達などを本当は相手にしたくないんだ,どうせ駄目に決まってるんだから・・・」と言った内容の事を喋られた後すぐ、「じゃあこれから一人づつ前に出て三分間スピ−チだ、喋る事はなんでもいい」
すっかりKさんの発言に威圧・圧倒され,「何なんだこの人は」と誰もが縮こまってしまっていた中での突然のお達しに、僕達は、肉食動物を前にした草食動物のように、ただじっと蹲っているしかなかった。
そんな僕等に,おかまいなしに三分間スピ−チの時が過ぎて行く。
あまりの駄目さに業を煮やしたKさんは,「じゃあ次の奴から自己PRだ」と鋭く言い放った。
幸い僕には時間が少し残されていたので,少ない脳味噌をフル回転させ、「ただ喋るだけじゃ駄目なんだ」と、簡単な寸劇のようなものにしようと考えていた。
やがて僕の番に。
必死だったと思う,その時何をどうやったか等憶えてはいなかったのだが、終えた時には、緊張感と不思議な達成感に包まれていた。
足の震えを暫く止める事が出来なかったと記憶している。
やがて最後の一人が終え,Kさんが口を開いた。
「三分間スピ−チを知ってたのはいるか」との問いに,一人の女性が手を挙げた。
その人は僕等よりも年齢が少し上で,経験が多少ある方だったのだが、確かにその人は三分間でしっかりと話しをまとめていた。
僕達をゆっくり見回しながらKさんは,「まぁこういうのは最初の奴が不利だったりするがな、後の奴は前のを見て色々考える時間があるわけだから」と前置きし、「しかし、前の奴と同じようになったら何の意味もないんだよ」と。
そしてこれからの自分の中にしっかりと植え付けられる事となる「種の話」を,Kさんは今までとは違う、教え諭すような口調で語り始めた。
「いいか,お前等はこの世界でプロとして生きたいと思うんなら、友達も蹴落とす位の覚悟でいろよ、嫌、自分以外は敵だと思え、周りの連中は自分を育ててくれる肥料だと思え、自分はその養分を吸って育つ種だと・・・いいか、肥料にはなるなよ、種にならなきゃ駄目だ」
「俺が見た限りじゃ,この中には種に成り得る奴は二人いる、さっきの子は除いてな」
僕等は,多分初めて経験する張り詰めた空気の中で、綺麗事ではない「現実」の一端を垣間見せられていた。
誰もが安易に考えていたのだと思う,「現実」も「夢」のように甘いものではないのかと。
しかし,Kさんは乱暴ではあるが、一気に僕等の目を覚まさせてくれた。
それと,皆の頭にあったのは、二人が誰なのかという事であっただろう。
Kさんの授業はいつも緊張感に包まれていた。
教室にはいつもKさんの怒鳴り声が響いていた。
最後のカリキュラムは「アテレコ実習」,それは実際にマイクの前で、フィルム(当時は)に当ててみるというものであったのだが、Kさんからは、「絵の上に載せようとするなよ、フィルムの向こう側から滲んでくるような感覚を持ってやるんだ」と言われ続けていた。
しかし,頭では理解しているつもりだったのだが、体が反応する事が出来ず、いつもいつも棒読みのセリフを繰り返し続けていた。
故に,何度やっても言葉が「生命」を持つ事はなかった。
そして,それぞれが次の進路を決めなければいけない時が近づいてくる中で、僕はそれを目にしたのだ。
「ぴあ」のはみだしの下段,そのペ−ジにだけ載っていた、「ボイス・ア−ツ」募集の記事を。
舞台というものに魅力を感じていなかった僕にとって,他に何かある筈だと自問していた僕にとって、その募集は天からの啓示のようにも思えた。
そしてその講師の方があのKさんだと知った時は,正直驚き、束の間迷った。
何故かというとあまりにも恐かったからだ,全く情けない話しなのだが。
しかし,僕は「ボイス・ア−ツ」のオ−ディションを受ける事にした。
そして専門学校卒業式後の飲み会の席で,Kさんに、「僕もボイス・ア−ツを受ける事になりましたので」と話すと、「俺は厳しいぞ、駄目な奴はどんどん切り捨てていくからそのつもりでいろよ」と言われ、気の弱い僕は泣きそうになっていたものだ。
そんな時,バイト先に一本の電話が掛かってきた。
「ボイス・アーツ」の説明を受けるために電話した時にも話していた0さんからで、バイトをしてみないかという話しであった、新入社員の役で一言だけだからと。
何か企業のPRフィルムだという。
まさかそれが自分の運命を大きく突き動かす事になろうとは,その時は思ってもいなかったのだが・・・

「ボイス・ア−ツ」にはもう既に現場を踏んでいる人達もいて,その人達と僕等のレベルの差には歴然とした開きがあった。
かくいう僕も,デビュ−作「アクロバンチ」の現場を踏んではいたのだが,だから尚更だったのかもしれないが、自分があまりに何も出来ないという事実に,心の中で地団駄を踏み続けていた。
そう,僕は「ボイス・ア−ツ」では一番下であったのだ。
仕事はしているが,それはただ単に運が良かった、ラッキ−だったというだけで、僕には本当に何もなかった。
だからガムシャラだった。
余計な事は考えずに,上だけを見ていればよかった。
しかし・・・
出来る人達にとっては,下に合わせたレッスンは苦痛だったのだろう。
二〜三ヶ月が経つうちに,その何人かの方は辞めてしまっていた。
その間僕は僕で,現場との葛藤を続けていた。
Kさんのレッスンで特徴的だったのは,その状況を実際に作り出す作業をするという事だった。
「息切れしながら」という注釈がついているのなら,スタジオを出て玄関まで走るという行為を三回程繰り返した後マイクの前に行き、そのセリフを喋るといった具合に。
ア−ト・センタ−のスタジオは地階にあり,スタジオ内左横にある階段を登リ降りして出入りするというしくみになっていた。
無論,ブ−スにもそうしなければ出入りは不可能だ。
そこを三往復,これが中々ハ−ドであった。
そういう事も含めながらレッスンは続き,やがてそれがマイクの前で生かされる事となっていく。
とは言っても,結果が伴ってくるのはまだまだ先の事になるのだが。
スタジオには,いつもKさんの怒鳴り声が響いていた。
階段を下りてくる激しい足音を聞くたびに,僕等は首を竦めていたものだ。
その当時,僕等にアドバイスをしてくれる方がもう一人いた。
Kさんとの名コンビで知られていた,ミキサ−のYさんだ。
Kさんの剣幕に何も言えず項垂れている僕等に,よく助け舟を出してくれたものだった。
そういうKさんも,ただ恐いだけの人ではなく、人情味溢れる方だった。
ご自分の仕事に僕等を「ガヤ」で使ってくれようとしたり、レッスンの時にブ−スに各プロダクションのマネ−ジャ−を連れてきて、「どうだ、いいと思う奴がいたら頼むよ」と僕等を推してくれたりしていたのだ。
Kさんはアフレコの創世記から現場に立たれ,数々の武勇伝は枚挙にいとまがない。
役者とも現場で激しく対立し,台本を叩きつけて返った方もいた等という話しを聞き、「まぁ後から謝りにきたから許してやったがな」と語る姿に、僕等はただただ溜息を漏らしていたものだ。
こういった方だから敵も多かったのだが,後年、ある洋画の現場でご一緒させていただいた大先輩に、その後の飲み会の席でディレクタ−から、「この子はKさんの教え子なんですよ」と紹介された時、このように言われたものだ。
「あいつに教えられたのか、でもよくちゃんと育ったな」と。
しかし,その言葉の中には、本当に卑下しているという響きは感じられなかった。
Kさんにしろ,他のディレクタ−の方にしろ、諸先輩にしろ、ぶつかりあいはしょっちゅうあった。
誰もが「侍」であったのだ。
現場は,「誇り」と「誇り」のぶつかりあいでもあり、ある意味「職人魂」の発現の場でもあったのだ。
そういった強烈な個性の中で,僕は何と儚い存在であったものか。
押し潰されて消えてしまっても何の不思議もなかった僕という個性が生き延びてこられたのは、一重に、Kさんのおかげであるし、Yさんのおかげでもあると思っている・・・

話しを少し戻すが,前述のバイトの後、そのスタジオが入っているビルの一階にある喫茶店に連れられていったのだが、そこには「ボイス・ア−ツ」の中核を成すメンバ−(女性七人程)と、先程スタジオで紹介されていた、「ボイス・ア−ツ」の後ろ盾としてバックアップをする事になる、プロダクションNのMさんがいた。
そしてその場で僕はMさんから,「オ−ディションを受けてみないか」と話しを持ちかけられた。
「オ−ディションですか・・・」「あまり時間がないんだけど今ちょっと考えてみてくれないかな」「はい」と暫く逡巡した後「お願いします」と言うと,Mさんは「じゃあちょっと待ってて」と電話を掛けに行き戻ってくると、「悪いけど今から行ってくれないか」と、スタジオの場所を僕に説明してくれた。
僕はただただ「はぁ,はい」と答える事しか出来ず,急激な状況の変化に付いていく事が出来ずにいた。
僕が席を立つ時,皆さんから「頑張ってね!」「落ちついてね!」「もうオ−ディションかぁ凄いな」等と言葉を掛けられていたのだが、その場にいた誰もが僕がオ−ディションに受かるとは夢にも思っていなかっただろう。
当人も勿論「受かる」等という単語を思い浮かべる以前に,「オ−ディションとはどのようなものだろう」という不安と緊張でガチガチに固まっていたのだ。
新宿にある,Sスタジオ。
恐る恐る扉を押した先に,階段が地下へと続いている。
一歩一歩足を下ろす度,やけに大きく足音が響いていた。
否,それは足音ではなく、僕の心臓の鼓動だった。
僕自身今にも破裂しそうな,緊張感の只中にいたのだ。
大きく深呼吸をしたあと,手前のスタジオの扉を押し開く。
中には三人の方がいた。
「おはようございます」「君がNくん?」「ハイ」「じゃあ早速だけど、これがキャラ表で、こっちがセリフ、今ちょっと目を通してくれる」
それを渡された時,僕は心臓が口から飛び出そうな程驚いていた、今の今まで「アニメ」だとは考えてもいなかったのだ。
「大草原の小さな家」のような海外ドラマを勝手に想像していたのだ。
「えっ」と内心呟き、どうしていいか分らずにいる僕に、「じゃあブ−スに入ってくれる」とディレクタ−らしき方から言われ小さな部屋に入った。
「じゃあテストでお願いします」「あっ,ハイ・・・」
今では信じられないのだが,僕のオ−ディションは約一時間にも及んでいた。
一言発する度にディレクタ−が入ってきて,駄目出しが行われていたのだ。
僕は全身に脂汗をかきながら必死にセリフを喋っていた。
全てが終りヘトヘトになって出てきた僕に,「緊張した?」と声が掛かり、「君は今は何をしてるの?」とディレクタ−に聞かれたので、今は専門学校を卒業したばかりですと答えていた。
「じゃあこれからだね,もっと芝居を勉強したり、舞台や映画を見たりしてね」
「ありがとうございました!」と頭を下げ,スタジオの階段を登る。
扉を押した瞬間,気持ちが一気に解き放たれるのを感じていた。
心も身体もとても軽くなっていたのだ。
僕は「いい経験をさせてもらったな」と,大きく伸びをしながら新宿駅南口に向かって歩きはじめていた。
まだ冬の名残りを残している風に汗が引いていくのを心地良く感じながら,いつものように僕は空を見上げる。

「あの向こうに希望はあるのだろうか」

そんな事を考えながら,先程のオ−ディションを振り返ってみる。
「まだまだこれからやる事は山程あるな」
しかし,と僕は思う。
「やるだけの事は精一杯やらないと」
何かに背を押されるように又歩を踏み出した僕には,時が既に動き始めている事など知る由もなかった。
一週間程たったある日,バイト先に電話が入った。
知らない女性からで,もう一度オ−ディションに行ってくれませんかという内容だった。
奇しくもその日は「ボイスア−ツ」のオ−ディション日と重なっていて,「ボイスア−ツ」の方の時間をずらしてもらった。
時間がほとんど一緒だったのだ。
二度目のオ−ディションは早く終わった。
三月の終り,僕は「ボイスア−ツ」のメンバ−になると共に、「プロ」として現場を踏む事が決定していた。
「決まりましたので,それでフリ−だと色々問題があるのでうちのプロダクションに入っていただきます、早速で申し訳ありませんがスケジュ−ルをお伝えしてもかまいませんでしょうか、4月の頭から録りに入りますので・・・」
この間は,まさに嵐のようであった。
それは同時に,僕の走り続ける日々の始まりでもあった。
これからは走りながら色々な事を学習し,吸収していかなければならないのだ・・・

半年程して「ボイスア−ツ」はメンバ−を最募集,補充を行い、それから半年後には、「ボイスア−ツ2」としてのメンバ−を募集していた。
今思えば,最初の一年位が「ボイスア−ツ」の一番いい時期であったように思われる。
その頃はまだ,皆向上しようという気概に満ちていた。
それが,「仕事・仕事」となっていったのは何故だったのか。
「誰々は誰々よりもKさんに贔屓されている」「あの子ばっかり使われて」etc・・・
Kさんの現場に入るのは「順番」ではないのだ。
片寄ってくるのは当然の事であるし,呼ばれない人間にはそれなりの理由がある筈なのだ。
一言で片付けてしまうのなら,「自分に魅力がない」という事に尽きるだろう。
他人(ヒト)のせいにしていたらキリがないし,「平等」など有り得ない世界なのだ。
そこには色々な要素が絡んでくるであろう,「声」しかり「容姿」しかり「性格」しかり・・・
使われるのも人間ならば,使う方も人間だ。
そこには自ずと「好み」というものが現れてくる。
それは仕方ない事なのだ。
様々な事を悩み、考えながら、自分を磨いていく。
その繰り返しの中で,信じた道を進むしかないのだ。

僕はいつのまにか,一番下ではなくなっていた。
「ボイスア−ツ」の中でどうこう言ったところで,所詮、井の中の蛙でしかないのだ。
その頃の僕は若かったからかもしれないが,「ぬるま湯」状態になっていく自分達が許せなかった。
こんな事では先は見えすぎる位見えていたのだ。
勿論この事に関して,KさんやYさんには何の責任もない。
この信じられない程の恵まれた環境を,「当たり前」という風に錯覚していった自分達の、何と愚かだった事か。
「上を見る事が出来ないのならば」
僕は決断した。
暫く一人で勉強をしていこうと。
そんな時,先輩のTさんから「俺達のグル−プに参加しないか」と話しを持ちかけられた。
TさんもKさんの教え子の一人であった。
当時Tさん達数名は,実験的なグル−プを立ち上げ、カセットブック(CDはまだ影も形もなかった)を作る等活発な活動をし始めていた矢先だった。
しかし僕は辞退した。
Tさんには,団体で何かをするという行為に自分が疲れ果ててしまっている事と、一人で色々とチャレンジしてみたいという旨をハッキリと伝えた。
普通は僕のような新人がそんな話しをされたら無条件にも飛びつくものだと思うのだが,僕は自分の今の心境を包み隠さず話していた。
聞き終えたTさんは,「まったくお前は頑固だよなぁ」と笑った後、「分った、残念だがお前はお前の思うようにやってみな」と僕の目を真っ直ぐ見て言ってくれたのだった。

かくして僕の「ボイスア−ツ」での日々は終わりを告げた。
それからの僕は「タップダンス」等を習いに行ったりもしていたのだが,突然仕事が忙しくなってきて、レッスンに行く時間を取るのも間々ならなくなっていった。
その間僕は自分が「この人は」と思う先輩と盛んに接触を試み,飲み屋で議論をたたかわせたりもしていた。
そしてあれは,久しぶりに連絡を取り、Tさんと飲んでいた時だった。
「そういえば,前にKさんから言われた事があったんだ、Tよ、Nって奴知ってるか?って、でもその時はまだお前の事知らなかったから、知りませんて答えたんだよ、そうしたらKさんが、こいつは中々の玉でなぁ、って言ってたんだ・・・」
その話しを聞き終えた時,「えっ」という思いと同時に、何か熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
Kさんからはいつも,「お前はホントに駄目な奴だなぁ」と言われ続けていたのだ。
「男なんだからもっとシャンとしろ!」とも言われ続けていたのだ。

そして僕はその時全てを理解していた。
専門学校で話された「種の話」の一人は、在学中に既にアニメのヒロインでデビュ−を果たしていたHさんを指しているのであろう事は皆薄々分っていたのだが、もう一人は誰であるのか・・・それは自分自身であったのだ・・・

アニメの主役に決まり,その報告に行った時、「なんだって、誰だディレクタ−は!今が一番大事な時なのに漫画なんかやったら駄目になる、前にもいいなと思ってた奴がいたんだが、そいつは漫画をやって駄目になっちまったんだ、俺が直接そいつと話しをする!」と大変な剣幕になられた事があった。
僕はただ青くなって突っ立っているしかなかった。
後日・・・
「お前をどうしても使いたいそうだ,しょうがないしっかりやれよ!」
とレッスンの始まる前に言われ,僕は全身から力が抜けていくのを感じていた。
そんな光景が,立て続けにフラッシュバックしていた・・・

あれから約20年。
「ボイスア−ツ」のメンバ−で仕事を続けている人間は数人いる。
皆当たり前だが,いい年になった。
現場で会えば,やはり懐かしさが溢れてくる。
そう,今となっては「いい思い出」なのだ。
時は確実に僕の気持ちを柔らかくしてくれていた。
ミキサ−のYさんが独自に教えていた子達の中にも,プロとしてやっている人間が数人いる。
それもこの世界の中核を成す人間としてだ。
これだけは言えるのだが,「あの場があったから今の僕がいる」
しかし,KさんやYさんに何の「恩返し」も出来ていないと、僕は思う。
では何が「恩返し」になるのか。
それは・・・

「この世界で生き残り続けていく事」

それこそが最大の「恩返し」になるのだと,いつの頃からか僕はそう思うようになっていった。

例え一歩を踏み出すのに果てしない時間が掛かるとしても,僕は決して途中で諦めたりはしないだろう。
終りを迎えるのなら,諦めの中で迎えるのではなく、踏み出せると信じた中で迎えたい。
思いはいつもその先を見つめていたい。

空は今日も,限りなく深い・・・

PS:この文章を,先日急逝された「山田太平さん」に捧げます。  中原茂

2003/7/14(月)16:53 茅ヶ崎「ドト−ル」にて



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